『舒明と皇極とは即位した天皇ではない』

たけ(tk)たけ(tk)のML GGB03124@nifty.ne.jp


 「古代の風」という雑誌に投稿した原稿です。

 縦書きで印刷するように整形してあります。

 【舒明・皇極とはなにか】

 古代史に詳しくない方にとっては「舒明・皇極」といわれてもぴんと来な
いかもしれません。

 でも「天智天皇」とか「天武天皇」とかいうのはご存じでしょう。日本書
紀によると天智天皇と天武天皇とは兄弟であり、その父親が「舒明天皇」、
母親が「皇極天皇」ということになっています。

 泉涌寺というお寺があるそうです。(2002-01-19(土)追加)

  ここは、「百八代後水尾天皇から明治天皇のお父様の孝明天皇に至るまで
歴代天皇・皇后・皇族の廟所」だったそうです。つまり皇室の菩提寺ですね。
この泉涌寺に「天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿」というのが
あるそうです。天皇家自身も現実的な始祖は天智天皇だと認識していたよう
です。(なお、このお寺と皇室との縁故は13世紀頃かららしい)。

 * スズメ♂さんの「泉涌寺散策」が分かりやすい。(2003-09-28(日)アドレス訂正)

 「舒明・皇極」というのは現天皇家の現実的な始祖である天智天皇の両親
ということになります。つまり、「舒明・皇極」の実在性の問題は、現天皇
家の現実的な始祖である天智天皇の自出に関る問題だということです。

 【予備知識】

 予備知識として、日本書紀の作者が言っている天皇の順番は次の通りです。

 推古(♀)→舒明(♂)→皇極(♀)→孝徳(♂)→斉明(♀)→天智(♂)→天武(♂)

 このうち「推古(♀)」さんも聖徳太子のときの天皇として有名ですね。
天智天皇とか天武天皇というのも結構有名ででしょう。有名どころの天皇に
挟まれたマイナーな天皇のうち二人が怪しい、ということになります。

 なお、「皇極(♀)」と「斉明(♀)」とは同一人物だ、と日本書紀の作者は
言っております。

 【本文の趣旨】

 本文の趣旨は、同じくマイナーな天皇である「孝徳(♂)」は風土記やその
他の資料で非常に実在感のある朝廷として浮かび上がってくる。ところが、
その同じ資料で「舒明(♂)」と「皇極(♀)、斉明(♀)」の朝廷は全く(ほと
んど)見えてこない。従って、本当は朝廷としては存在しなかったのではな
いか、ということです。

 なぜ、《本当は存在しなかったのに、日本書紀には存在したように書いて
あるか》といえば、要するに彼らが天智の父親と母親だったからでしょう。



 『舒明と皇極とは即位した天皇ではない』

                        世田谷区  熊 谷 秀 武

 ニフティの FREKIJ の二番会議室で徒然に書いてきた
もののまとめです。参考にした資料などはニフティをご
覧ください。編集部のひとに「前書きを」と言われたの
ですが、この文章をどう捉えていいのか自分でも分から
ないので。「著者も意味を掴みかねている」ということ
で前書きにかえさせていただきます。

 * WEB版ではニフティの発言は【追加情報】で見れます。

 最初に結論と理由を書いておきます。

 結論: 舒明と皇極とは即位した天皇ではない。

 理由:

 (一) 日本書紀の影響が少ないと思われる資料を調
        べると、

      『推古◎|舒明×|皇極×|孝徳◎|斉明×|天智◎』
                                          (※一)
        というパターンになることが多い。つまり、舒
        明と皇極の朝廷の存在が見えてこないことが多
        い。

 (二) 同じ資料で、孝徳の難波朝廷の存在感が非常
        に強く見えてくる。

 (三) 日本書紀によると各天皇の在位期間は

      舒明=一三年|皇極=四年|孝徳=一〇年|斉明=七年

        となっている。各資料での孝徳の難波朝廷の存
        在感と舒明・皇極の存在感の希薄さを比較すれ
        ば、これは舒明と皇極の朝廷の不存在を示して
        いるというべきである。

    (※一)
    ◎=朝廷の存在を示す資料がある。
    ○=朝廷の存在を感じさせる資料がある。
    △=資料はあるが朝廷の存在を示すものではない。
    ×=資料そのものが無い。

 なお、即位した天皇ではない人に天皇号を与えること
を「追諡」というらしい。続日本紀などにはよく出てく
る。とすると、舒明と皇極も「追諡」されたものが、日
本書紀の編纂において、「即位した天皇」として扱われ
てしまった可能性もあるのではないかと考えています。

【追加情報】(1)偶然と確率
【追加情報】(2)祖先のxxがxx天皇に
【追加情報】(3)「タラシ」名
【追加情報】(4)万葉集

 一 舒明と皇極の「朝廷」は見えない

 (一) 伊勢神宮の記録

 直木孝次郎さんの『日本古代の民族と天皇』という本
の二七六頁、二七八頁に『皇室と伊勢神宮との関係を示
す記事は・・継体朝(記・紀)、欽明・敏達・用明・崇
峻・推古の諸朝(以上紀のみ)に皇女が伊勢大神に仕え
たことを記している。・・書紀には舒明朝から天智朝に
至る約五〇年の間、斎宮関係の記事はもちろん、神宮へ
の遣使、奉祭の記事はまったくみられない。・・ただし
『皇太神宮儀式帳』によれば、孝徳朝には有爾鳥墓村に
神痔[痔−ン]を作り、度会の山田原と竹村とに屯倉を
作り、天智朝には飯野の高宮村の屯倉を作り、これらの
屯倉には、督領や助督をおいたという記事がある』とあ
りました。

 これを整理すると、

    『推古◎|舒明×|皇極×|孝徳◎|斉明×|天智◎』

というパターンになります。

 (二) 天孫本紀の物部の系譜

 『先代旧事本紀』の天孫本紀には物部系譜があり、そ
の付記として、仕えた天皇が記述されているものがあり
ます。それを抜き出して整理すると、

 世代 名前   表現     天皇
 一四 贄古   小治田豊浦宮 推古
 一五 鎌姫   小治田豊浦宮 推古
 一五 恵佐古  小治田豊浦宮 推古
 ××             舒明
 ××             皇極
 一六 馬古   難波朝    孝徳
 一六 荒猪   難波朝    孝徳
                 斉明
 一六 多都彦  淡海朝    天智

となり、ここでのパターンも

    『推古◎|舒明×|皇極×|孝徳◎|斉明×|天智◎』

となります。この物部系譜での各天皇への割り付けは神
武から天武まで、完璧になされていますから、舒明、皇
極、斉明への割り付けが存在しないのが目立っています。

 仮に先代旧事本紀の天皇と物部の大連との対応が作為
的なものだとしても、そうであれば、この系譜を書いた
人が、「舒明と皇極については大連の対応を記述する必
要のない天皇である」と判断していた。つまり、系譜を
書いた天武朝のころには舒明と皇極とは即位した天皇と
は見なされていなかった、ということになるでしょう。

【追加情報】(5)先代旧事本紀
【追加情報】(6)畑井弘『物部氏の伝承』

 (三) 続日本紀

 続日本紀(講談社学術文庫版続日本紀・上)には『難
波朝(孝徳)の右大臣の大伴長徳の子の御行』というよ
うに、「祖先のxxがxx天皇に仕えていた」という記
述があります。このタイプの記述を整理してみると、

    『推古◎|舒明×|皇極×|孝徳◎|斉明△|天智◎』

となります。推古の◎は『小治田朝の大徳の小野妹子の
孫の毛人の子の毛野』ともう一つの二ヶ所。孝徳の◎は
前記の大伴長徳など六ヶ所です。

 斉明の△は『後岡本朝(斉明)時代の筑紫の太宰の阿
倍比羅夫の子』という記述です。

 この文章には他にはみられない「時代」という言葉が
あり、朝廷の一員という記述とはなっていません。阿倍
比羅夫は越国守から筑紫太宰になっていますので、朝廷
の一員として天皇に近従していたわけではなさそうです。
また、比羅夫は白村江で将軍として活躍した人物ですか
ら、「百済滅亡から白村江に至る時期」に重要な意味が
あります。ところが、その時期を表現するためには『後
岡本朝時代』と書くほかないわけです。これらの点から
見て、この記述は斉明の朝廷の存在を示す資料とは言え
ないと判断しました。

 なお、続日本紀には斉明の名前は、他には「斉明のお
墓」が二回、「天智が斉明のため建てた寺」というのが
一回出てきます。これらは天智の母親が存在したことを
意味していますが、彼女が即位した天皇であったことを
意味するものではありません。お墓については後述しま
す。

【追加情報】(7)続日本紀(上)
【追加情報】(8)続日本紀(中)
【追加情報】(9)舒明と「豊・璋」

 (四) 風土記

 風土記のパターンは

    『推古◎|舒明△|皇極△|孝徳◎|斉明△|天智◎』

となります。舒明・皇極の△は「伊予の温泉に来たこと
がある」という一つだけです。これは・・、彼らが天皇
であったことの証拠になりますかねぇ?。

 斉明の△は備中風土記逸文が一つあるだけです。内容
は「皇極天皇の六年に百済が滅んだときに天智天皇が迩
磨(ニマ)の郷で、ためしにこの郷の軍士を徴収すると、
ただちに優秀な兵二万人が集まった。それで、ニマとい
う地名になった」というもの。怪しげなので証拠として
は不採用とします。

【追加情報】(9)舒明と「豊・璋」
【追加情報】(10)『風土記』(東洋文庫)より



 (五) 日本古代氏族事典

 『日本古代氏族事典』(雄山閣、佐伯有清編)で調べ
ると、さすがにたくさん出てきました。とは言っても、
パターンとしては

    『推古◎|舒明△|皇極△|孝徳◎|斉明△|天智◎』

でいいと解釈しています。リストをあげます。

 --------
 舒明 前部  『日本後紀』: 「小治田 (推古)・飛鳥
            (舒明)の二朝のときに来朝して帰化した」
            (二七三頁)
 舒明 卦婁  『日本後紀』:同上。(二一四頁)
 舒明 商長  『姓氏録』:三世孫の久比は泊瀬部天皇
            (崇峻)の代に呉国に遣わされ・・久比の
            男、宗麿は舒明天皇の代に商長の姓を負っ
            た。(渡来系氏族であったとみられる)。
            (〇〇九頁)
 --------
 皇極 巨勢[木威]田
            『姓氏録』:「男荒人。天豊財重日姫天皇
            <諡皇極>御世。遣佃葛城長田。・・天皇
            大悦。賜[木威]田臣」。(巨勢・・六世紀
            以降に朝鮮問題に関与することによって台
            頭した新興氏族であったとみる説がある)。
            (二二一頁)
 皇極 神主  『姓氏録』:市川臣・・の子孫が皇極天皇
            の時代に神主首と名付けられたという所伝
            が載せられている。(一八二頁)
 皇極 田辺  =陵辺。(三〇三頁)
 皇極 陵辺  『姓氏録』:「斯羅。諡皇極御世。賜河内
            下山田。以解文書。為田辺史」。(事実は
            渡来系の氏族であったと考えられる)。
            (四三四頁)
 --------
 斉明 荒木田    『二所太神社例文』の「荒木田遠祖奉
                仕次第」:荒木田神主首麿に「賜荒木
                田姓。斉明天皇御代奉仕」・・とある。
                (祭主の地位にある中臣氏と擬似的同
                族関係にあった)。(〇三八頁)
 斉明 利波  『越中石黒系図』:利波古臣の曾孫財古臣
            の譜文に 「岡本朝 (斉明朝か)為利波評
            督」。
 斉明 宇努  『姓氏録』:「出百済國・・七世孫衣古之
            裔孫。中石男。斉明天皇御代。賜宇努首」。
            (百済系渡来氏族)。
 斉明 武蔵  『姓氏録』:斉明天皇の代に蘇我蝦夷によ
            って物部直・神主首と号せられ、これによ
            って臣の姓を失い、・・
 斉明 西文  『西琳寺縁起』:斉明天皇五年(六五九)
            正月に仏像。
 --------

 この中で、「卦婁・前部:『日本後紀』」と「西文:
『西琳寺縁起』」とは年代としての意味しかないでしょ
う。

 「武蔵:『姓氏録』:斉明天皇の代に蘇我蝦夷によっ
て・・」も主体は蝦夷であって、斉明ではない。

 「利波:『越中石黒系図』」を利波評督に任命したの
は天皇であろうが、任命者ははっきりせず、越中での話
しなので朝廷で近従していた人物ではない。

 「荒木田:『二所太神社例文』」と 「神主: 『姓氏
録』」は伊勢神宮で中臣の部下の神主であったと思われ
る。祭主の地位にあった中臣氏の擬似的同族関係も指摘
されるなど、中臣の系譜観に従った伝承である可能性が
高い。

 結局、舒明・皇極に近従していたと思われるのは、

 舒明の商長の宗麿      (呉国の秤をもたらしたので
                        商長の姓を負った)。
 皇極の田辺史の斯羅    (河内下山田に住み、文書を
                        解した)
 皇極の巨勢[木威]田の荒人
                        (佃葛城長田を開墾したので
                        天皇が大悦した)。
 斉明の宇努の中石男    (宇努首を賜った)

の4人であるが、そのうちの3人(商長、田辺史と宇努)
は渡来系と推測されている。残りの巨勢氏は六世紀以降
に朝鮮問題に関与していた氏族と思われ、聖明王の部下
だった人物(許勢のガマ、 欽明05.03)さえみられる。
巨勢の荒人は、荒れ地を開墾したとあるので、朝鮮半島
から帰ってきて佃葛城長田に住んだ可能性が高いと思う。
この4人は全員が無冠であり、朝廷の構成員とは思われ
ない。

 彼ら4人が近従していたのは『天智の父母』だったの
ではないだろうか?。

【追加情報】(9)舒明と「豊・璋」
【追加情報】(11)日本古代氏族事典

 (6) 第1次遣唐使の人々        nifty:FREKIJ/MES/02/02128

 日本書紀の舒明3年から4年にかけての第一次遣唐使
および高表仁の来日は、中国側の史書からも確認できる
信頼できるものです。ここに出てくる人々は次の通りで
す。

 三田耜        推古22.06.13にも「大唐に行った」と
                あります。
 藥師惠日      推古31.07唐から来日、舒明02.08遣唐、
                白雉05.02遣唐。
 大伴連馬養    「馬飼ともいう。本名長徳。皇極元年、
                舒明天皇の殯宮に小徳として誄した」
                とあるから、舒明・皇極に近い人物と
                みられる。『公卿補任』に記録がある
                らしい。
 難波吉士小槻  他に見えず。
 大河内直矢伏  他に見えず。
 伊岐史乙等    「伊岐史は・・自出長安人劉家楊雍
                也・・」という氏族の説明がある。し
                かし、伊岐史乙等という人物について
                の説明はない。
 難波吉士八牛  他に見えず。
 吉士雄摩呂    他に見えず。
 黒麻呂        他に見えず。

 このうち、大伴連馬養に関係する『公卿補任』が未調
査なので不完全なのですが・・。

 三田耜の旧事本紀での伝承は推古天皇の下での遣唐の
記録です。

 また、藥師惠日の 『続日本紀』天平宝宇02.04の記録
も 『徳来の五代目の孫の恵日は、小治田朝廷 (推古天
皇)の御世に、大唐国に派遣され、医術を習得しました』
(講談社学術文庫版『続日本紀・中』、 p.186)という
もの。どちらも、推古期での記録しか、子孫は伝えてい
ない。

 「難波吉士小槻」〜「黒麻呂」につき、小槻(オツキ)
と乙等(オト)とは名前が似ている。矢伏(ヤフシ)と
八牛(ヤウシ)も似ている。日本書紀の書き方でも「小
槻と矢伏に令して・・すなわち乙等と八牛を遣わして」
とあるので、日本書紀の作者も同一人物とみなしていた
のかもしれない。同一人物だとすると、彼らの伝承は複
数の氏族(大河内直系、難波吉士系、伊岐史系)が異な
った名前で伝えていた可能性が高い。ところが、彼らの
子孫は誰一人として舒明朝での祖先の活躍を姓氏録など
で自慢していない。

 「舒明天皇のとき」という伝承ではなかったので、公
開できなかったのではないか?。と推測するが、いずれ
にしても、日本書紀に名前が明記された人でさえ、その
子孫は舒明期での功績を記録していないので、

 『推古◎|舒明×|皇極−|孝徳−|斉明−|天智−』

というパターンということになります。

【追加情報】(12)第一次遣唐使
【追加情報】(13)小治田朝→難波朝
【追加情報】(14)第4次遣唐使

 (7) 天皇陵                    nifty:FREKIJ/MES/02/02091

 ある人が死んだときに、その直後に天皇陵としての立
派なお墓が作られているのであれば、天皇として死んだ、
ということになるかもしれません。

 よって、森浩一の『天皇陵古墳』の  p.96  にあった
『「扶桑略記」にみえる山陵記載』という一覧表で見て
みます。

 推古  山陵、河内国石川郡科長山田。或云、山陵、大
        和国高市郡。(高二丈。方二町)
 舒明  改葬大和国城上郡押坂山陵。(一云。河内国石
        川郡。高四丈。方九町)
 孝徳  山陵、河内国石川郡大坂磯長。(十二月葬磯長
        山陵。高二丈。方五町)
 斉明  山陵、朝倉山。(陵高三丈。方五町)改葬大和
        国高市郡越智大握間山陵(十一月改之)
 天智  山陵、山城国宇治郡山科郷北山(高二丈。方十
        四町)

 これをみると、舒明と斉明(皇極)には「改葬」の文
字があります。彼らが死んだ直後には今のような立派な
「天皇」陵は作られなかったようです。

 2 まとめ

 これらの資料を調査しても、舒明・皇極が即位した天
皇であった旨の傍証を得ることはできなかった。

 ところが、同じ資料における孝徳の圧倒的な存在感が
感じられる。それとの対比において「舒明・皇極は即位
した天皇ではなかった」という方向での証拠が揃ってき
たというべきではないだろうか?。

【追加情報】(15)新唐書
【追加情報】(16)帝説裏書の翻訳文
【追加情報】(17)彦人大兄の御名入部
【追加情報】(18)泉涌寺
【追加情報】(19)吉備池廃寺
【追加情報】(20)大織冠伝
【追加情報】(21)威奈大村墓誌
【追加情報】(22)斉明が授けた冠位
【追加情報】(23)大伴系図(古屋家系図)



 【追加情報】(1)偶然と確率

02288/02293 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 偶然と確率
( 2)   98/11/24 01:55  02269へのコメント

 スズメ♂ さん、こんにちは、熊谷です。レスありがとうございました。

》 まず(2)ですが、書紀の影響を受けていない史料というのは大変少なく、反証
》することが極めて難しいです。

 書紀の影響を受けていない史料として次のように考えたのですが、この方
法自体について、と、各資料についてのあてはめについてはご意見はないで
しょうか?。

 (1) 書紀よりも前に作られたものであれば、 書紀の影響はない。
        (#01922:先代旧事本紀。 先代旧事本紀は書紀よりも前の作成だ
        と思っているが、異論もあるだろう。#02091:天皇陵も書紀よりも
        前に作られたもの)。
 (2) ただし、書紀の種本になったものもあるはずなので、古ければい
        いというものではない。(家伝はその口だと思う)。
 (3) 書紀よりも後に作られた文献に記載された事実でも、性質によっ
        ては、書紀の影響を無視できるものがある。
 (4) たとえば、各氏族の祖先伝承において、祖先のxxがxx天皇に
        仕えていた、という個々の伝承では書紀に遠慮する必要は何もない。
        (#01922:先代旧事本紀の物部系譜、#01922:続日本紀での有名人
        の祖先が仕えていた天皇。#02128:第一次遣唐使の2人の子孫の伝
        承)。また、各地域の個々の伝承(#02152:風土記)でも伝承者が
        書紀の年代観を配慮する必要は少ない。

》 次に(1)ですが、これを、偶然(たまたまその時代に該当する出来事がなかっ
》ただけ)でない、と証明することができるでしょうか。

 偶然というのは、確率で表現できます。舒明・皇極期の事実で本来後代の
記録に残ってもいいような事実(赤玉)と孝徳期の同様な事実(白玉)が同
数あったとすると、これが偶然に抜け落ちて、孝徳期の事実だけがN個だけ
記載される確率というのは、元の事実が十分多い場合には、2のN乗分の1
になります。赤玉と白玉が十分たくさん入っている箱からN個の玉を取りだ
したときに全部が白玉になる確率と同じです。

 * 元の事実の数(箱に入っている赤玉、白玉の数)は実際には同数では
    ない。期間が長ければ多くなり、短ければ少なくなる。また、時代が遡
    れば少なくなる。時代に関しては舒明・皇極の方が古いので少なくなっ
    ていることになるが、期間に関しては舒明・皇極は17年で、孝徳は1
    0年なので、舒明・皇極の方が2倍近く多いはず、ということになる。
    これを合わせれば元になる事実の数は「だいたい同じ」と想定していい
    と思う。

 それで、たとえば、続日本紀では孝徳朝の「右大臣の大伴長徳」と「刑部
尚書の高向の国忍」「物部の宇麻乃」「左大臣・大繍の巨勢徳多」の4人が
出てくるので、16分の1の偶然でそうなることになります。推古朝も含め
るなら、「大徳の小野妹子」「小徳の巨勢大海」の2人が加わるので、64
分の1の確率になります。伊勢神宮の記録に舒明・皇極が出てこないのも偶
然として加えれば128分の1になります。天皇陵で舒明・皇極だけが「改
葬」となったのも偶然とみれば、256分の1の確率の偶然となり、第一次
遣唐使の三田耜と藥師惠日の子孫が舒明期における記録を忘れたのも偶然と
みれば、2個偶然が加わるので、1024分の1の確率の偶然になります。

 * 「262ページ:孝徳朝の左大臣・大繍の巨勢徳多の孫の邑治」を追加
    しました。

 風土記で孝徳に10個、舒明・皇極に0だとすると、その確率は1024
分の1の確率。全部合わせれば、104万8576分の1の確率の「偶然」
でそうなる可能性はあります。

 と、まあ、何万分の1の確率になっても「偶然」にそうなる可能性は否定
できません。しかし、これだけ資料が揃うと「偶然」で済ますことは、常識
的ではない。何らかの説明を考える必要がある、と思うのですが・・。

 −−

 PS.おかげ様で、「補闕記」「家伝」などをゲットできました。(国会
図書館は第3土曜日が開館日)。

 『家伝』の記事のうちで、斉明が死んで『十四年。皇太子摂政。契闊早年
情好惟篤。義雖君臣。禮但師友。・・遥聞喜抃駆慶良深。摂政六年』の部分
がよく分からないのですが、 これは突厥王子の 「契必加力」とその家臣の
「闊xx」の関係の記事が混じっていると読んでもいいのでしょうか?。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(2)祖先のxxがxx天皇に

 この文はKANAKさんの次の質問に答えたものです。

》なお、「舒明」の存在についての「後代史料」ですが・・・
》
》1,「日本書紀」舒明紀二年条・・又、吉備国の蚊屋采女を娶して、蚊屋皇子を
》  生しませり。
》
》2.「続日本紀」天平勝宝三年条・・正月二十七日 無位の垂水王・・らに三島
》  真人の氏姓を賜り、無位の三船王に淡海真人の氏姓を賜り、・・・
》
》3.「新撰姓氏録」・・左京皇別「三島真人、出自諡舒明皇子賀陽王也」
》
》  *蚊屋=賀陽=香屋=賀夜
》
》・・・における「続日本紀」・「新撰姓氏録」のセットではダメでしょうか?
》「諡舒明」では「天皇即位」の証明にはならないかも知れませんが・・・

 趣旨は、後代の人が「舒明の子孫だ」といっても舒明が天皇であったこと
の証明にはならない。しかし、後代の人が「私の祖先は舒明に仕えていた」
と記録していた場合には、内容によっては、舒明が天皇であったことの証明
になる。というものです。

02028/02029 GGB03124  熊谷秀武         RE:舒明と皇極は存在しない?
( 2)   98/09/21 00:22  02013へのコメント

 KANAK さん、こんにちは、熊谷です。

》なお、「舒明」の存在についての「後代史料」ですが・・・
》  ・・・
》・・・における「続日本紀」・「新撰姓氏録」のセットではダメでしょうか?
》「諡舒明」では「天皇即位」の証明にはならないかも知れませんが・・・

 こういう御指摘なら大歓迎です。

 でも、残念ながら、証明にはなりませんね。子孫であれば、日本書紀に天皇
と書いてあるのをみれば、当然、天皇だったと主張するでしょう。

 家臣であれば、仕えていない天皇に仕えたと言うべき動機はない。「そこで
何をやっていたのか」と聞かれたら、嘘を重ねなければならなくなるので、そ
んな危険なことはできない。ただ、個人的に天智の父親に仕えていた人の子孫
が「舒明天皇に仕えていた」と言う可能性はある。

 「新撰姓氏録」の総当たりが必要ではないかと思っていすのですが、持って
いないので出来ません。「日本古代氏族事典」で調べようと思ったけれど、他
の出典や、解釈・省略が混じっているので、手におえませんでした。(;_;)

  熊 谷 秀 武

【追加情報】(11)日本古代氏族事典



 【追加情報】(3)「タラシ」名

02005/02006 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ タラシ
( 2)   98/09/19 20:59  01922へのコメント

 直木孝次郎さんの『日本古代の民族と天皇』の索引でみるともう一つ舒明・
皇極関係の記事がありました。p.206

        『すでに水野祐氏らによって詳論されたように、記紀にみえる天皇の
        和風諡号を検べてみると、帯(足)のつく天皇は、実在性のきわめて
        薄い第六代の孝安を除くと十二代景行(大帯日子)、十三代成務(若
        帯日子)・十四代仲哀(帯中津日子)の3代と、それからはるかに隔
        たった三十四代舒明(息長足日広額)・三十五代皇極(天豊財重日足
        姫)の二代だけであって、はじめの景行以下の三人の天皇の名(和風
        諡号)は、あとの二人の天皇(舒明・皇極)のころに造作された疑い
        が濃いのである』

ということろに出てきました。舒明・皇極の実在が明らかである、という前提
を採ると、そういう結論になるのでしょうか?。

 しかし、その論理を使って、舒明・皇極の実在が明らかでないという前提を
とるなら、四十四代元正(日本根子高瑞浄足姫、日本紀+系図1巻が献上され
たときの天皇ですね)の頃に舒明と皇極の和風諡号が造作された疑いが濃い、
と言えなくもない。

 * 蛇足ですが、斉明タラシ姫が即位した655年=乙卯[52]と元正タラシ
    姫が即位した715年=乙卯[52]とは干支が同じ。干支対応しています。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(4)万葉集

 この項目は長いので一番最後に書いてある結論を先に書いておきます。

 万葉集でのパターンは

    『推古×|舒明◎|皇極◎|孝徳×|斉明◎|天智◎』であり

    『推古◎|舒明×|皇極×|孝徳◎|斉明×|天智◎』という

ほかの史料でみられるパターンと正反対になっています。

 この現象は、万葉集の作者の認識の中に「孝徳の時代と舒明−皇極−斉明の
時代とはダブっている」という意識があったことの現れではないでしょうか?。

02020/02022 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 万葉集その1
( 2)   98/09/20 20:51  01922へのコメント

 万葉集に「高市岡本宮御宇天皇代」に「天皇」が詠んだ歌や、「飛鳥川原原
宮御宇天皇代」や「後岡本宮御宇天皇代」に「中皇命」などが詠んだ歌がある
ことは知っています。

 しかし、万葉集では「日本書紀を検するに」とか「紀に曰く」とかいう考察
が頻発しておりますので、日本書紀、日本紀の年代観・系譜観に従っているこ
とは明らかであります。

 よって、万葉集が引用している山上憶良あたりの認識を点検してみます。

 以下「その1」で一般論、「その2」で各論、「その3」で万葉集の年代観
について述べます。

 【高市岡本宮御宇天皇代・飛鳥川原原宮御宇天皇代】

 万葉集(岩波文庫版)には『高市岡本宮御宇天皇代』『飛鳥川原原宮御宇天
皇代』という文字が出てきます。しかし、万葉集が日本書紀、日本紀の年代観・
系譜観に従っていることはあきらかですので、

 万葉集の作者が「日本書紀で舒明・皇極の時代とされた時代」に詠まれた歌
であることを示すためには、「高市岡本宮御宇天皇代」「飛鳥川原原宮御宇天
皇代」「後岡本宮御宇天皇代」と書くほかありません。

 従って、これをもって彼らの天皇としての実在を示す傍証であるとすること
は、単純には、できません。

 【舒明天皇の歌・皇極天皇の歌】

 舒明・皇極の天皇としての実在性が分からない、としても、天智の父母が居
なかった、ということはありません。従って、天智の父親が詠んだ歌や母親が
詠んだ歌もあるでしょう。

 万葉集の作者は日本書紀の系譜観を前提にしていますので、「天智の父親」
の歌であれば「舒明天皇」の歌、「天智の母親」の歌は「皇極天皇」の歌と書
くほかはありません。

 また、「日本書紀において舒明期・皇極期・斉明期とされた期間に天皇であ
った人物」が詠んだ歌もあるでしょう。これを何と呼ぶか、という問題が出て
きます。これも、書紀の年代観からいえば「舒明天皇」「皇極天皇」の歌と呼
ばれざるをえなくなります。

 熊谷さんのモウソウというのは、『日本書紀において舒明期・皇極期・斉明
期とされた期間に天皇であった人物(これを「舒明A」、「皇極A」「斉明A」
と呼んでおく)』と『天智の父母(これを 「舒明B」 「皇極B」と呼んでお
く)』とが本当に同一人物であったか、という疑問であると言い換えることが
できます。

 よって、万葉集で「舒明の歌」とされたものには舒明A(その時代の天皇)
の歌と舒明B(天智の父親)の歌の2種類が考えられます。

 * モウソウがモウソウであれば、一致します。

  熊 谷 秀 武

02021/02022 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 万葉集その2
( 2)   98/09/20 20:51  01922へのコメント

 万葉集で舒明・皇極に関係がありそうな歌を見てみます。万葉集については、
まったく詳しくありませんので、いろいろ御指摘ください。

 −−

 【高市岡本宮御宇天皇(舒明A)の国見歌(2-4)】

 この歌は舒明A(『日本書紀において舒明期とされた期間に天皇であった人
物』)の歌でしょう。

 国見というのが、通常の天皇において普通に行われる行事なのか、外からや
ってきた天皇が行う特徴的な行事なのかは知りませんが。ともかく、単なるハ
イキングではなく、天皇としての行事の時に詠まれたものと思われます。

 しかし、舒明Aが連れ歩いている「中皇命」という人物は不明です。「軍王」
という人物も不明です。天智と舒明Aとの関係も分かりません。

 【高市岡本宮御宇天皇(舒明A)代の讃岐で軍王が作った短歌(5-6)】

 この歌の後書きには、

        『  讃岐國安益郡に幸しし時、軍王、山を見て作れる歌
            ・・・
        右は、
        (A) 日本書紀を検するに、讃岐國に幸ししことなし。また軍王い
        まだ詳らかならず。
        (B) 但、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、
        (C) 記に曰く、天皇の十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、伊予の温
        湯の宮に幸しきといへり。
        (D) 一書に云く、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの
        木に斑鳩と比米と二つの鳥多く集まれりき、・・。』

というような複雑な注がついています。これによると、山上憶良が類聚歌林が
引用した『記』という書物があるようです。 現行の日本書紀の舒明11.12には
伊予の温湯の宮に行ったという記事がありまし、舒明11年の干支は己亥でな
ので干支も一致しています。

 * なぜ、万葉集の作者が「日本紀を検」して現行の日本書紀にみられる舒
    明11.12の記事を引用しなかったのかは疑問です。
 * 『斑鳩と比米』というのは何かを暗示するものだろうか?。

 しかしともあれ、「山上憶良が類聚歌林で引用した『記』」の作者が舒明A
の存在を認めていることは検出できました。

 【岡本宮御宇天皇の紀伊国での雑歌(1665-1666)】

 大宝元年のそっくりの歌が(1667)に書いてあるので、あまり信用はできない。

 −−

 【明日香川原宮御宇天皇(皇極A)代−額田王の歌(7)】

        『右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検するに曰く、一書に、戊申の年、
        比良宮に幸しし大御歌といへり。
        但、紀に曰く、五年春正月・・、天皇、紀の温湯より・・』

 山上憶良の類聚歌林の一書の「戊申の年」は孝徳04=648=戊申[45] にあたり
ます。よって、ここからは山上憶良が皇極Aの治世の時代を認めていたことは
確認できません。

 【後岡本宮御宇天皇(斉明A)代−額田王の歌(8)】

        『右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検するに曰く、飛鳥岡本宮御宇天
        皇元年己丑、九年丁酉十二月・・。
        後岡本宮天皇馭宇天皇七年・・』

まず、この文章で「後岡本宮天皇馭宇天皇(斉明A)七年」以降の部分が「山
上憶良大夫の類聚歌林を検するに曰く」の内容であるかどうかが問題になりそ
うです。この部分を日本書紀の斉明07.01.06、07.01.14と比べてみるとほぼ同
文であることが分かります。また、御宇と馭宇の用語の違いなどもあるので、
山上憶良の文章からの引用ではないと判断いたします。

 山上憶良の文章によれば、飛鳥岡本宮御宇天皇(舒明A)の時代となってい
ますので、斉明Aの治世を検出することは出来ません。ただし、これにより、
山上憶良の認識における舒明Aの時代は検出できました。

 あと、ここら辺で面白いのは「額田王」の歌(8)は「天皇の御製なり」とか、
中皇命の歌(10-12)は「天皇の御製の歌なり」とか言っていることです。 おそ
らく皇極B・斉明B(天智の母親、姉妹)についての評価が確定していなかっ
たのではないかと想像されます。

 【後岡本宮御宇天皇(斉明A)代−挽歌(141-146)】

 天皇は出てきません。

 −−

 【崗本天皇の相聞歌(485)-(487)】

 『崗本天皇といへるは、 いまだその指すところを審らかにせず』とある。

 * 「わが恋ふる 君にしあれば 昼は・・ 夜は・・」とあるので女性の
    歌のように思える。

 * 岩波文庫版日本書紀4、p.267によると崗本天皇というのは 『家伝』の
    用語で、舒明♂を指しているらしい。

 【崗本天皇の秋雑歌(1511)】

 崗本天皇の正体が判然としませんし、コメントもなく、歌の内容からも判断
できそうな要素は含まれていません。

 −−

 結論として、山上憶良や彼が引用した『記』の作者の認識において『飛鳥岡
本宮御宇天皇(舒明A)の治世の時代』の存在を認めていることは分かりまし
た。

 ただし、彼らがその時代の天皇を天智の父親(舒明B)であると認識してい
たかどうかは、未だ謎のままです。

 山上憶良が皇極A、斉明Aの治世を認識していたかどうかは検出できません
でした。

  熊 谷 秀 武

02022/02022 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 万葉集その3
( 2)   98/09/20 20:51  01922へのコメント

 万葉集の巻1と巻2とはxx御宇天皇代というようなタイトルで整理されて
います。この年代観を見てみましょう。次のようになっています。

 巻1 雑歌 泊瀬朝倉宮        雄略
 巻1 雑歌 高市岡本宮        舒明
 巻1 雑歌 明日香川原宮      皇極        ※1
 巻1 雑歌 後岡本宮          斉明
 巻1 雑歌 近江大津宮        天智

 巻2 相聞 難波高津宮        仁徳
 巻2 相聞 近江大津宮        天智

 巻2 挽歌 後岡本宮          斉明
 巻2 挽歌 近江大津宮        天智

 ここでのパターンは

    『推古×|舒明◎|皇極◎|孝徳×|斉明◎|天智◎』であり

    『推古◎|舒明×|皇極×|孝徳◎|斉明×|天智◎』という

ほかの史料でみられるパターンと正反対になっています。

 * 難波天皇の妹の歌(484)などもあるので、 孝徳の存在を無視しているわ
    けではなさそうです。しかし、時代を支配した天皇としては無視していま
    す。

 この現象は、万葉集の作者の認識の中に「孝徳の時代と舒明−皇極−斉明の
時代とはダブっている」という意識があったことの現れではないでしょうか?。

 * 「泊瀬朝倉宮」とか「難波高津宮」とかいうやけに古い天皇を持ち出し
    ているのも気になります。「難波宮」なら孝徳ですけどね。

 ※1 明日香川原宮御宇天皇は皇極なのだろうか?。飛鳥河原行宮は孝徳:
      白雉04是歳が初見で、 斉明01是冬に引っ越した場所ではないのだろう
      か?。皇極は一般には飛鳥板葺宮と呼ばれているはず(岩波文庫版日本
      書紀4、p.335)。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(5)先代旧事本紀

01922/01929 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極は存在しない?
( 2)   98/09/12 22:31  01905へのコメント

 次の表は『先代旧事本紀』の天孫本紀にあった物部系譜(p.195−p.236)か
ら、仕えた天皇が記述されているものを抜き出し、天皇順に並べたものの後半
部分です。

 【先代旧事本紀−天孫本紀より、物部系譜と天皇との対応表ーその2】
 代 名前   親    関連する宮  年代   天皇名 メモ
 11 大前   麦入   石上穴穂宮  454-457 安康?
 11 布都久留 伊香井  大長谷朝   457-480 雄略  ※2
 11 目    伊香井  磐余甕栗宮  480-485 清寧  ※2 ※3
 11 小前   麦入   近飛鳥八釣宮 485-488 顕宗
 12 木連子  布都久留 石上広高宮  488-499 仁賢  木連子=木莚?
 13 麻佐良  木莚   泊瀬別城宮  499-507 武烈? 別城宮=列城宮?
 13 目    木莚   継体天皇   507-534 継体  ※3
 14 麁鹿   麻佐良  勾金橋宮   534-536 安閑
 12 荒山   日    桧前廬入宮  536-540 宣化? 「日」=「目」?
 14 押甲   麻佐良  桧前廬入宮  536-540 宣化?
 13 尾興   荒山   磯城嶋金刺宮 540-572 欽明
 13 具足尼  木莚?  磯城嶋宮?  540-572 欽明  木連子@仁賢??
 15 目    御狩   磯城嶋宮?  540-572 欽明  御狩@敏達?? ※4
 14 御狩   尾興   訳語田宮   572-587 敏達
 14 守屋   尾興   池身双槻宮  587-588 用明  ※1
 14 布都姫  尾興   倉梯宮    588-593 崇峻
 14 贄古   尾興   小治田豊浦宮 593-629 推古
 15 鎌姫   贄古   小治田豊浦宮 593-629 推古
 15 恵佐古  麻伊古  小治田豊浦宮 593-629 推古  恵佐古=志佐古?
                    629-642 舒明
                    642-645 皇極
 16 馬古   目    難波朝    645-655 孝徳  目@欽明?? ※4
 16 荒猪   志佐古  難波朝    645-655 孝徳  恵佐古=志佐古?
                    655-663 斉明
 16 多都彦  志佐古  淡海朝    663-672 天智  恵佐古=志佐古?
 15 雄君   守屋   飛鳥浄御原宮 672-686 天武  守屋@用明?? ※1
 17 麻呂   馬古   浄御原朝   672-686 天武

 これを見ると、舒明と皇極とは、物部一族が使えた天皇としては、存在しな
いことが分かります。

 ・・ 以下略(続日本紀の分析なので別項目にしました) ・・

【追加情報】(7)続日本紀(上)



 【追加情報】(6)畑井弘『物部氏の伝承』

 物部系譜に舒明と皇極が存在しないのは何故か、 につき、 畑井弘さんが
『物部氏の伝承』(三一書房)で、蘇我氏に石上神社の祭祀権を一時的に奪
われたから、という解釈をしていました。よって、それも検討してみたいと
思います。畑井弘さんの趣旨は次の通りです。

 日本書紀にも「蘇我大臣の弟が物部大臣と称した」とありますが、『新撰
姓氏録』の布留宿禰の項に

    『四世孫額田臣、武蔵臣、斉明天皇の御世、蘇我蝦夷大臣、武蔵臣物部
    首並びに神主首と号(トナ)ふ。茲に因りて、臣姓を失い物部首となる』

とあり(p.240)、また「石上振神宮抄」所載の「神主布留宿禰系譜」に

    『三十六代皇極天皇御世に大臣蘇我蝦夷宿禰(俗に武蔵大臣と云う)。
    母、太媛と申す。物部弓削大連の妹なり。弓削大連滅亡の後に太媛祭首
    に補す。蝦夷大臣の次男敏傍(トシカタ)宿禰を物部大臣と号し祖母の時依て
    成を世にとりしより物部族神主家も蘇我の僕となる。ここに市川臣の4
    世孫神主物部首額田臣の武蔵臣の姓名を失う。・・四十代天武天皇の御
    世に日向が3世孫邑智に姓を賜ふて布留宿禰と云う。』(『大和志料』
    中巻・234ページ)

とあるのを引いて  「石上神宮奉斎権が蘇我氏の手に落ちた時代があった
(p.252)」としています。 そして、物部氏としてはこれを不名誉なことと
して語り継ぐのを拒否し、覆い隠したのが「舒明・皇極の2代に限って誰が
神宮を奉斎したかを明記せぬ所以」だとしています(p.254)。

 しかし、「石上神宮奉斎権が蘇我氏の手に落ちた時代があった」ことは可
能性が高いかと思われますが、その「時代」の天皇が皇極であったとは思え
ません。この解釈だと、「石上神宮奉斎権が蘇我氏の手に落ちた」のは皇極
の時代ですから、その前の舒明の時代に「誰が神宮を奉斎したかを明記せぬ
所以」の説明が出来ません。また、孝徳の時代に明記した後に、斉明の時代
に再び消えてしまうことの説明も出来ません。



 【追加情報】(7)続日本紀(上)

 ニフティにアップしたものですが、

 262   孝徳    ◎  孝徳朝の左大臣・大繍の巨勢徳多の孫の邑治。

の部分は抜けていたので、追加・修正してあります。

 なお、前半の省略部分は先代旧事本紀の関係なので別項目にしてあります。

【追加情報】(5)先代旧事本紀

01922/01929 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極は存在しない?
( 2)   98/09/12 22:31  01905へのコメント

  ・・・(先代旧事本紀関係の部分は別項)・・・

 この傾向は、続日本紀からも言えそうです。

 −−

 続日本紀から白村江以前の天皇名が出てきた記述を抜き出した表です。

 【続日本紀にみる白村江以前の天皇名】
 ページ(ページは講談社学術文庫版続日本紀(上)による)
 ↓
 303   ニニギ  ○  高天原より降臨された天皇(ニニギ)
 358   孝元    ○  軽の堺原宮の天皇(孝元)の曾孫の武内宿禰は・・、
 158   安康    △  伏見山稜(安康)
 158   垂仁    △  櫛見山稜(垂仁)
 308   仁徳    ○  難波の高津宮の大鷦鷯天皇(仁徳)は・・
 052   倭建命  △  倭建命の墓
 181   雄略    ◎  泊瀬朝倉朝廷の大連の物部目の後裔で難波朝(孝徳)の・・
 042   宣化    ○  宣化天皇の玄孫の多治比王の子
 031   押坂    △  成会山陵(押坂彦人)
 xxx   欽明    ×  (なし)。
 xxx   敏達    ×  (なし、だけど、古いから・・)。
 127   用明    ◎  池辺宮の天皇(用明)のときに高麗へ行った。
 xxx   崇峻    ×  (なし、4年しかないが、用明は2年しかない)。

 xxx   推古    ◎   (36年間)。
 150   推古    ◎  小治田朝の大徳の小野妹子の孫の毛人の子の毛野
 179   推古    ◎  小治田宮の小徳の巨勢大海の孫の天武朝の志丹の子の麻呂

 xxx   舒明    ×  (なし、13年間)。
 xxx   皇極    ×  (なし、4年間)。

 xxx   孝徳    ◎  10年
 035   孝徳    ◎  難波朝(孝徳)の右大臣の大伴長徳の子の御行
 088   孝徳    ○  難波宮の天皇(孝徳)は鎌足を・・
 106   孝徳    ◎  難波朝廷(孝徳)の刑部尚書の高向の国忍の子の麻呂
 151   孝徳    ◎  難波朝(孝徳)の右大臣の大伴長徳の子の安麻呂
 181   孝徳    ◎  難波朝(孝徳)の物部の宇麻乃の子
 262   孝徳    ◎  孝徳朝の左大臣・大繍の巨勢徳多の孫の邑治。
 264   孝徳    △  白鳳(孝徳)以来・朱雀(天武)以前のことは・・
 321   孝徳    ◎  難波朝(孝徳)の右大臣の大伴長徳の孫の旅人

 xxx   斉明    △  (7年間)
 025   斉明    △  遠智山陵(斉明陵)
 109   斉明    △  後岡本宮(斉明)のために天智が作った寺
 208   斉明    △  後岡本朝(斉明)時代の筑紫の太宰の阿倍比羅夫の子
 420   斉明    △  遠智山陵(斉明陵)

 ◎ 誰かがその天皇に仕えた、という記述。
 ○ 個人としての天皇が記述されているもの。
 △ 墓。年代としての記述。

 これを見ても、続日本紀の時代の人の祖先が仕えた天皇としての、舒明と皇
極とは存在しないことが分かります。

  熊 谷 秀 武

02287/02293 GGB03124  熊谷秀武         RE:舒明と皇極は存在しない?
( 2)   98/11/24 01:55  01922へのコメント

 一つ抜けているのを発見しました。次のものを追加してください。

 【続日本紀にみる白村江以前の天皇名】
 ページ(ページは講談社学術文庫版続日本紀(上)による)
 ↓
 262   孝徳    ◎  孝徳朝の左大臣・大繍の巨勢徳多の孫の邑治。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(8)続日本紀(中)

 これはちょっと面白い話しです。762年に死んだ石川朝臣年足という人
の記事に「後岡本朝大臣大紫大臣蘇我臣牟羅志曾孫」とあるんです。

 これは一見、後岡本朝=斉明=の朝廷の存在証明になりそうに見えます。

 ところが、彼は664年(天智03)に死んだ連子の曾孫でして、その前の
世代の人々はそうは言っていなかったのです。連子の子供の宮麻呂(713
年12月6日亡、  p.146)や孫の石足 (729年8月9日亡、 p.307)は
「連子は天智朝の大臣であった」と言っていたのです。

 本当は後岡本朝=斉明=の朝廷などなかったのに、時代が下ると、徐々に
朝廷があったと信じられていく様子が見えるようです。

02484/02484 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 続日本紀(中)
( 2)   99/03/22 00:10  01922へのコメント

 #01922  【続日本紀にみる白村江以前の天皇名】では講談社学術文庫版続
日本紀(上)だけしか調べていませんでしたが、(中)には舒明と斉明の名
前が出てきたので報告しておきます。以下の表はざっと見でまとめただけで
す(いいかげんです)。

 【続日本紀にみる白村江以前の天皇名】
 ページ(ページは講談社学術文庫版続日本紀(中)による)
 ↓
 353   仁徳    ○  日下部の小麻呂の祖先の借鎌は難波高津の朝廷の時代
                    に播磨に住んでいた。
 186   雄略   ◎  泊瀬朝倉朝廷のとき百済から(難波の薬師の奈良の祖
                    先の)徳来が来日した。
 414   用明    △ 用明の皇子の久米王の子孫。
 112   推古   ◎  小治田朝の小徳(巨勢)大海の孫
 186   推古   ◎  小治田朝廷の御世に(難波の薬師の奈良の祖先の)恵
                    日が大唐国に派遣された。
 353   推古?  ○  日下部の小麻呂の祖先の牟射志は上宮太子に仕えてい
                    た。
 380   舒明    ☆  義慈王は高市岡本宮の御世に豊璋と(百済王敬福の祖
                    先の)禅広王を日本に遣わせ、天皇の側近に侍らせた。
 266   孝徳    ◎ 難波長柄豊崎朝の大臣で大繍の(巨勢)徳太古の曾孫
 371   孝徳    ◎  難波長柄豊崎朝は大山上の(秦毘登浄足の祖先の)安
                    倍小殿小鎌を伊予に派遣して朱砂を採取させた。
 285   斉明    ☆ 後岡本宮の大臣・大紫の蘇我臣牟羅志の曾孫の年足。
 380   斉明    △  後岡本朝廷に及んで義慈王は降伏し、豊璋は高麗に逃
                    れた。そのため(百済王敬福の祖先の)禅広は百済に
                    戻らなかった。

 まず、p.380の「義慈王は高市岡本宮の御世に (百済王敬福の祖先の)禅
広王を日本に遣わせ、天皇の側近に侍らせた」という記事が気になります。
これは高市岡本宮の御世に天皇の側近に侍らせた、とあるので。舒明の側近
に侍らせた、という意味になるでしょう。

 #02132『舒明と皇極 @ 日本古代氏族事典』で、舒明・皇極に近従してい
たとみられる人物は、

【追加情報】(11)日本古代氏族事典

 舒明の商長の宗麿          (呉国の秤をもたらしたので商長の姓を負った)。
 皇極の田辺史の斯羅        (河内下山田に住み、文書を解した)
 皇極の巨勢[木威]田の荒人  (佃葛城長田を開墾したので天皇が大悦した)。
 斉明の宇努の中石男        (宇努首を賜った)

の4人しか見えない。そのうちの3人(商長、田辺史と宇努)は渡来系と推
測されている。としていましたが、4人目の渡来人である禅広王が舒明に近
従していたことになります。なんで、渡来人ばかりなのでしょうか?。

 #02153『舒明と「豊・璋」』で、日本書紀の舒明03.03.01(631年)の
「豊璋」というのは「豊(扶余豊)」と「璋(扶余璋=武王)」の2人であ
り、三国史記武王33年 (632年)の立太子の記事は、 実権が義慈に移
り武王(璋)は隠居して日本に遊びに来た、と読めないことはない、とした。
隠居に伴って、扶余豊と禅広の二人が世話役として付いてきた、と考えてみ
たらどうだろうか。そのように考えると、百済の宮で死に、百済の大殯をし
たと日本書紀に書かれている「舒明」というのは百済の武王(璋)のことで
あったということになってしまいますが・・。

【追加情報】(9)舒明と「豊・璋」

 −−

 つぎに、p.285の「後岡本宮の大臣・大紫の蘇我臣牟羅志の曾孫の年足」
というのが問題です。斉明朝廷の実在の証拠に、一見すると、なりそうです。
実は、この記述を見つけたのは倉本一宏『日本古代国家成立期の政権構造』
(吉川弘文館)という本の452ページなのですが、そこには次のように書
いてありました。

    『続日本紀』に見える連子(天智03.05の 「蘇我連大臣」)の子孫の薨
    卒伝によると、石川朝臣宮麻呂のものには「近江朝大臣大紫大臣蘇我連
    子之第五男也。」と、石川朝臣年足のものには「淡海朝大臣大紫大臣蘇
    我連子之孫」と、石川朝臣年足のものには「後岡本朝大臣大紫大臣蘇我
    臣牟羅志曾孫」とある。

 これが何を意味するかというと、664年(天智03)に死んだ連子の子供
(宮麻呂、713年12月6日亡、p.146)や孫(石足、 729年8月9日
亡、p.307)は「連子は天智朝の大臣であった」と言っていたのに、  ほぼ
100年後、762年に死んだ曾孫の代になってはじめて斉明朝の大臣だっ
たと言い始めたということです。

 記述が変わった理由は分かりません。日本書紀をよく読んでみたら天智が
即位したのは天智07なので、その前の朝廷の大臣でないとおかしい、とでも
思ったのでしょうか?。

 曾孫がその親やお祖父さんの代の人より、ひいお祖父さんのことをよく知
っていたとは考えられませんから、曾孫の薨卒伝に「ひいお祖父さんが斉明
朝の大臣」であったと記述があっても「斉明朝廷が存在した」という証拠に
はなりません。

 −−

 なお、『日本古代国家成立期の政権構造』の同ページの趣旨は

    連子が大臣に任じられた時期は不明である。
    ・・・
    連子の大臣任命は、斉明4、5年頃のことであったのであろう。

ということのようです。658年(日本書紀の斉明04)ころの可能性が高い、
という年代推定としては構わないのですが、「斉明4、5年頃」というよう
に、斉明が任命したかのごとき記述は誤解を招くと思う。

 むしろ、何で、日本書紀に、連子が大臣に任じられた時期が書いてなかっ
たのか、の方が興味がある。思うに、連子を大臣に任命したのが斉明でなか
ったので、斉明4、5年頃の記事として大臣任命記事を書くことはできなか
ったのではないか?。

 −−

 * 天平宝宇02.08.09によると「(実際の天皇でなくても草壁)皇子の如
    き人に、天皇の尊号を追贈することは古今の恒例」なのだそうです。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(9)舒明と「豊・璋」

02153/02157 GGB03124  熊谷秀武         舒明と「豊・璋」
( 2)   98/10/18 00:52  01922へのコメント

 ちょっと暴走させてください。

 日本書紀の舒明03.03.01(631年)に「豊璋」という不思議な名前の百
済の王子が出てきます。

 何故、不思議な名前かと言いますと、三国史記によりますと「璋」という
のは武王(600-641)の諱でありまして、 「豊」というのはその子どもの名
前なのであります。つまり、時の百済王の名前とその王子の名前とを足した
名前になっているわけです。

 * 『武王。諱璋。法王之子。風儀英偉。志気豪傑。法王即位、翌年薨。
    子嗣位』
 * 『義慈王・・二十年・・武王従子福信嘗将兵。乃與浮屠道據周留城叛。
    迎古王子扶余豊嘗質於倭国者。立之為王』

 この頃に子どもの「豊」が来た事は確かだと思うのですが、父親の「璋」
も日本にきた可能性がなきにしもあらずだと思っています。というのは、三
国史記の武王33年(632年)に「元子の義慈を封じて太子にした」とい
う、三国史記にしてはめずらしい(※1)立太子の記事があるからです。

 ※1 他の立太子記事は、義慈王4年(立太子のみ)、文周王3年(大臣
      任命と立太子、この年に文周王死亡)、阿華王3年(立太子と大臣任
      命)、多婁王6年(立太子のみ)、温祚王28年(立太子のみ)だけ
      だと思う。温祚は初代、多婁は2代目なので神話世代。阿華と文周の
      記事は共に即位3年目の記事で大臣任命記事と共にある。

 この武王33年 (632年)の立太子の記事は、 実権が義慈に移り武王
(璋)は隠居したとも読めない事はない。隠居して日本に遊びに来たか、日
本に来たので隠居せざるをえなくなったのか、という可能性も考えられる。
ちなみに、日本書紀では「豊璋」が来日した時の百済王を「義慈王」として
いる(舒明03.03.01、631年)。

 武王(璋)が日本列島に行きっぱなしだったのか、百済に戻ったのか、来
なかったのかは不明。だが、武王(璋)が死んだときの三国史記の記事は

        42年(641年)3月、王が亡くなられ、諡号を武といった。使
        者が唐に行って素服を着、表文を差し上げて「外臣の扶余璋は亡く
        なりました」というと、帝は玄武門で哀悼式を挙行し、詔書を下し
        て「遠者を慰撫する道は寵命よりまさるものはなく、最終(死者)」
        を儀式する義理は遠方にいるからといってへだたることはない・・

        四十二年春三月。王薨。諡曰武。使者入唐。素服奉表曰。君外臣扶
        余璋卒。帝挙哀玄武門。詔曰。懐遠之道。莫先於寵命。飾終之儀。
        無隔於遐方。・・

となっている。これは唐からみて遠方(百済)で死んだ人という意味ではあ
るが、暗に百済から見て遠方(日本列島)で死んだことを示唆しているのか
もしれない。

 なお、この年に、日本書紀によれば、舒明が百済の宮で死に、百済の大殯
を行ったとしている(舒明13.11.09)。

 −−

 もしも、武王(璋)が日本に居たとすれば、豊・璋は「古くから百済人と
関係の深い(岩波文庫版日本書紀4、p.181)」橿原市飯高町の 「十市郡百
済宮」にいた可能性が高い。

 隠居であろうから、武王(璋)が有馬温泉(舒明03.09.19、 舒明10.10)
や伊予の温泉(舒明11.12.14〜舒明12.04.16)でのんびり過ごしたとしても
肯ける。

 −−

 あと、 百済大寺 (舒明11.07、 #02101:吉備池廃寺)についてですが、
「豊・璋」が来日した631年には百済では「王興寺」という壮麗な庭園を
建築中(※2)だったのです。

 ※2 王興寺は法王2年(600年)に着工して武王35年(634年)
      に完成したとある。・・法王って、聖徳太子と同じ名前ですねぇ・・。

 王興寺は武王35年(634年)の記事によると

        2月。王興寺が落成された。王興寺は江水に臨み、彩飾壮麗であっ
        た。王は常に舟に乗って寺に入り行香(仏に事える礼で、香炉を執
        って仏殿中を[糸尭]り行く儀式)した。

つづいて、翌月の3月には

        3月。宮城の南に池を堀り、水を二十余里の所から引き入れた。四
        つの(池の)岸に楊柳を植え、池の中には島を作って方丈の仙山に
        擬えた。

とあります。「豊・璋」は百済に壮麗な庭園を残して、日本列島に来たこと
になります。「豊・璋」たちが、日本列島でも同じような壮麗な百済大寺を
作りたかった、というのも肯けるでしょう。

 −−

 舒明・皇極に近従していたとみられる渡来系の人々(#02132)についても、
「豊・璋」やその配偶者、一族に近従していた人々とみれば、何の不思議も
ありません。

 日本書紀に描かれた舒明天皇というのは、「豊・璋」の来日と共に出現し、
「豊・璋」の行動としても理解しうる行動をし、「璋」の死亡と共に終わる
「天皇」なのであります。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(10)『風土記』(東洋文庫)より

 これも、本文では大幅にカットしてあるので、孝徳の圧倒的な存在感がな
くなってしまっています。原文で、味わってください。

02152/02157 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 風土記
( 2)   98/10/18 00:52  01922へのコメント

 もうそろそろこのシリーズも飽きてきました。でも今週は風土記をながめ
ていまして、ながめているとリストアップしたくなってしまうのが性分のよ
うです。

 というわけで、『風土記』(東洋文庫、平凡社)より・・

 ページ
 052 推古 播磨 聖徳の王の御世に弓削大連(物部守屋)が作った石である。
 067 推古 播磨 今、勝部と呼ぶわけは、小治田の河原の天皇(推古天皇か)
                の御世に、大倭の千代の勝部らを遣わして田を開墾させる
                と、やがてこの山のほとりに住んだ。だから勝部岡と呼ぶ。
 251 推古 肥前 むかし小墾田の・・(推古)が来目皇子を将軍として新羅
                を・・。皇子は筑紫にいたり、物部の若宮部を遣わしてこ
                の村に神社を建てた。
 279 推古 摂津 塩の湯を発見したのは・・どの御治世であるかは知らない。
                ただ島の大臣(蘇我馬子)の時だったと知っているだけで
                ある。
 297 推古 伊豆 推古天皇の御世には伊豆と甲斐との両国の間には聖徳太子
                の御領地が多かった。
 330 推古 伊予 天皇たちも温泉に行幸されて京より降り給うたことは五遍
                ある。・・上宮の聖徳皇子でもって一度とする。・・その
                時、湯の岡の側に石碑を建てて記していう・・と。・・
                ・・ →「330 伊予 斉明」と同文。
 -------------
 330 舒明 伊予 天皇たちも温泉に行幸されて京より降り給うたことは五遍
                ある。・・岡本の天皇(舒明)と皇后の二人で一度とし、
                ・・ →「330 伊予 斉明」と同文。
 -------------
 330 皇極 伊予 天皇たちも温泉に行幸されて京より降り給うたことは五遍
                ある。・・岡本の天皇(舒明)と皇后の二人で一度とし、
                ・・ →「330 伊予 斉明」と同文。
 -------------
 003 孝徳 常陸 難波の長柄豊前の大宮に天の下を治めになった天皇(以下
                「難波の・・」、孝徳)の御世になって、高向臣・中臣幡
                織田連らが我姫の地方を八ヶ国に分けた。
 012 孝徳 常陸 難波の・・(孝徳)の御世の癸丑の年(653年)に、茨
                城の国造小乙下壬生連麿・那珂の国造大建壬生直夫子らが、
                惣領高向の大夫・中臣幡織田の大夫らに請願して、茨城の
                八つの里を割いた。
 014 孝徳 常陸 難波の・・(孝徳)の御世になって、壬生連麿が、はじめ
                てその谷を占拠して、池の堤を築かせた。
 019 孝徳 常陸 難波の・・(孝徳)の御世、己酉の年(649年)に大乙
                上中臣○子、大乙下中臣兎子らが、惣領の高向の大夫に請
                うて、下総の国の海上の国造の管内の軽野から南の一つの
                里と、那珂の国造の管内の寒田以北の五里とを割いて、別
                に神の郡を置いた。
 020 孝徳 常陸 神戸は65戸である。《もとは8戸である。難波天皇(孝
                徳)の世に50戸を加え奉り・・》
 030 孝徳 常陸 難波の・・(孝徳)の御世になって、癸丑の年(653年)
                に、多珂の国造石城直美夜部と石城評造部志許赤らが、惣
                領の高向の大夫に申請し、・・多珂・石城の二つの郡を置
                いた。
 068 孝徳 播磨 右、石海と呼ぶわけは、難波の長柄の豊前の天皇(孝徳)
                の御世に、 阿曇の連百足が百枝の稲をとって献上したか
                ら・・。
 073 孝徳 播磨 難波の豊前の朝廷(孝徳朝)にはじめて(この土地の鉄を)
                献上した。
 077 孝徳 播磨 比治と呼ぶわけは、難波の長柄の豊前の天皇(孝徳)の御
                世に揖保の郡を分割して宍禾の郡を作ったときに山部比治
                が任命されたから。
 278 孝徳 摂津 昔、難波の・・(孝徳)の御世に、温泉に行くための行宮
                を作った。
 289 孝徳 伊勢 難波の・・(孝徳)の丙午の歳に(646年)竹連と磯部
                直の2氏がこの郡を建てた。
 -------------
 324 斉明 備中 『臣(ワタシ)は去る寛平五年 (893年)に備中の介に任ぜ
                られた。かの国の下道の郡には迩磨(ニマ)の郷がある。そこ
                でかの国の風土記をみると、皇極天皇の6年に大唐の将軍
                蘇定方が新羅の軍をひきいて百済を伐った。百済は使いを
                派遣して救援を請うた。天皇は筑紫に行幸して救援軍を出
                そうとした。時に天智天皇は皇太子で、摂政としてこの軍
                に従事して、下道の郡に宿った。ある郷で家や村が大層繁
                盛して栄えているのを見た。天皇は詔を下してためしにこ
                の郷の軍士を徴収すると、ただちに優秀な兵二万人が集ま
                った。天皇は大変よろこんで、この邑を名付けて二万の郷
                といった。後に改めて迩磨という。その後、天皇は筑紫の
                行宮に崩じたので、ついにこの軍は派遣しない』(『本朝
                文粋』2.三善清行『意見封事』)。
 330 斉明 伊予 『伊予の国の風土記にいう、−−湯の郡・・天皇たちも温
                泉に行幸されて京より降り給うたことは五遍ある。大帯日
                子の天皇(景行)と大后の八坂入姫とのお二人で一度とし、
                帯中日子の天皇(仲哀)と大后息長帯姫命(神功)のお二
                人で一度とし、上宮の聖徳皇子でもって一度とする。・・
                その時、湯の岡の側に石碑を建てて記していう・・と。岡
                本の天皇 (舒明)と皇后の二人で一度とし、 後岡本天皇
                (斉明)と、近江の大津の宮に天の下を治めになった天皇
                (天智)と、浄御原の宮に天の下を治めになった天皇(天
                武)の三人で一度とする。これで行幸されたことが五度で
                あるというのである』(『釈日本紀』十四、『万葉集註釈』
                三)。
 -------------
 020 天智 常陸 淡海の大津の朝(天智朝)にはじめて使いの人を派遣して
                神の宮を作らせた。
 053 天智 常陸 庚午の年(天智9年、690年)に、酒の泉を掘り出した。

 −−

 例によって孝徳の存在感は圧倒的です。

 天智の存在感が少ないですね。まあ淡海の大津の朝(天智朝)という朝廷
は検出できる。

 推古朝が「聖徳の王の御世」とか「島の大臣(蘇我馬子)の時」と呼ばれ
ていたり、「伊予の温泉に行った天皇たち」の一人に「上宮の聖徳皇子」が
含まれているのは何ともいえんですね・・。 (^_^;)

 ともあれ、舒明・皇極で問題となる記事は2個だけ。二万人の話しと伊予
の温泉の話し。見てみましょう。

 −−

 【二万人の話し】

        『臣(ワタシ)は去る寛平五年 (893年)に備中の介に任ぜられた。
        かの国の下道の郡には迩磨(ニマ)の郷がある。そこでかの国の風土記
        をみると、皇極天皇の6年に大唐の将軍蘇定方が新羅の軍をひきい
        て百済を伐った。百済は使いを派遣して救援を請うた。天皇は筑紫
        に行幸して救援軍を出そうとした。時に天智天皇は皇太子で、摂政
        としてこの軍に従事して、下道の郡に宿った。ある郷で家や村が大
        層繁盛して栄えているのを見た。天皇は詔を下してためしにこの郷
        の軍士を徴収すると、ただちに優秀な兵二万人が集まった。天皇は
        大変よろこんで、この邑を名付けて二万の郷といった。後に改めて
        迩磨という。その後、天皇は筑紫の行宮に崩じたので、ついにこの
        軍は派遣しない』(『本朝文粋』2.三善清行『意見封事』)。

 『本朝文粋』所引の備中風土記逸文というのは本物の風土記なのだろう
か?。たんに迩磨の郷の地名の由来に過ぎないし、もとから「大層繁盛して
栄えている」場所であったのなら元の名前があったはずなのに書いていない。
2万人を集めた功績のあった村長の名前も書いていない。だいたい、風土記
に書かれたこの様な「お話し型」の地名説話にしては時代が新しすぎる。

 天智が声を掛けたら優秀な兵士が二万人も集まったという話し自体も眉唾。
ついに派遣されなかったというオチもついているし・・。そのオチも、わず
か3年後の白村江の派兵との関連も明らかではない。

 仮に、天智がこの地に滞在した事実があったとしても、皇極の名は百済滅
亡の時(660年、斉明06)を示す年号として使われているに過ぎない。話
しの中で登場する人物は天智であって皇極ではない。『天皇は筑紫の行宮に
崩じた』というのは、日本書紀と同じであり、この二万人が歴史に現れない
理由として、あげられているに過ぎない。

 要するに怪しげな地名説話を、日本書紀の記述で潤色したものに過ぎない
と思われる。本物の風土記なのだろうか?。

 −−

 【伊予の温泉の話し】

        『伊予の国の風土記にいう、−−湯の郡・・天皇たちも温泉に行幸
        されて京より降り給うたことは五遍ある。大帯日子の天皇(景行)
        と大后の八坂入姫とのお二人で一度とし、帯中日子の天皇(仲哀)
        と大后息長帯姫命(神功)のお二人で一度とし、上宮の聖徳皇子で
        もって一度とする。・・その時、湯の岡の側に石碑を建てて記して
        いう・・と。岡本の天皇(舒明)と皇后の二人で一度とし、後岡本
        天皇(斉明)と、近江の大津の宮に天の下を治めになった天皇(天
        智)と、浄御原の宮に天の下を治めになった天皇(天武)の三人で
        一度とする。これで行幸されたことが五度であるというのである』
        (『釈日本紀』十四、『万葉集註釈』三)。

 伊予の温泉の話はどうだろうか?。伊予の温泉に行ったという話は日本書
紀の舒明11.12.14、斉明07.01.14 にもあるので、 古くからある話しなのだ
ろう。

 しかし、温泉に行くという行為は時の天皇でなくても出来るわけで、天皇
であったことの傍証とはならない。天智の父母としての「舒明B」「皇極B」
の話しという可能性もある。

 原文でないので書き方に注目するのは問題だが、斉明・天智・天武の3人
を並べるにあたって、

        後岡本天皇(斉明)、
        近江の大津の宮に天の下を治めになった天皇(天智)、
        浄御原の宮に天の下を治めになった天皇(天武)

という書き方になっている。時の天皇だったはずの斉明を「後岡本の宮に天
の下を治めになった天皇」と書いていない点にも注目していいかもしれない。

 −−

 いずれにしても、風土記からも舒明・皇極が天皇であった旨の傍証を得る
ことはできなかった。

 むしろ、これまで見てきた資料における孝徳の圧倒的な存在感から比べれ
ば、「舒明・皇極は天皇ではなかった」という方向での証拠が揃ってきたと
いうべきではないだろうか?。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(11)日本古代氏族事典

 本文では大幅にカットしてあり、推古や孝徳との比較が出来ていません。
これが原文です。

02132/02133 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 日本古代氏族事典
( 2)   98/10/10 21:38  01922へのコメント

 日本古代氏族事典から、推古〜斉明の名前を捜してリストしたものです。
ただし、出典が日本書紀と明示されたもの、及び日本書紀が出典と思われる
もの(※1)は除いてあります。

 ※1:出典が明記されていないが、日本書紀と思われるものもオミットし
        た。 p.303、p.305、p.320、p.356、 p.366。 出典を明記せずに、
        あたかも複数の独立の史料価値のある文献で確認された事実の如く
        記述したり、他の文献の紹介に続けて記述するのは不適切であり、
        不親切だと思う。

 −−

 【日本古代氏族事典の推古〜斉明の記事のリスト。但し日本書紀を除く】

 ページ    氏族 『出典』:記事(解説)

 273 推古 前部  『日本後紀』:「己等高麗人也。 小治田 (推古)・飛鳥
                (舒明)二朝庭時節。帰化来朝」。(高句麗系渡来氏族)。
 214 推古 卦婁  『日本後紀』:「己等高麗人也。 小治田 (推古)・飛鳥
                (舒明)二朝庭時節。帰化来朝」。(高句麗系渡来氏族)。
 106 推古 大貞  『姓氏録』:速火命十五世孫弥加利大連之後也。上宮太子
                摂政之年。任大椋官。」
 272 推古 簀秦  『聖徳太子伝暦』:簀秦画師は推古天皇十二年(六〇四)
                に設けられたとある。
 --------
 214 舒明 卦婁  『日本後紀』:「己等高麗人也。 小治田 (推古)・飛鳥
                (舒明)二朝庭時節。帰化来朝」。(高句麗系渡来氏族)。
 273 舒明 前部  『日本後紀』:「己等高麗人也。 小治田 (推古)・飛鳥
                (舒明)二朝庭時節。帰化来朝」。(高句麗系渡来氏族)。
 009 舒明 商長  『姓氏録』:三世孫の久比は泊瀬部天皇(崇峻)の代に呉
                国に遣わされ・・久比の男、宗麿は舒明天皇の代に商長の
                姓を負った。(渡来系氏族であったとみられる)。
 --------
 221 皇極 巨勢[木威]田
                『姓氏録』:「男荒人。天豊財重日姫天皇<諡皇極>御世。
                遣佃葛城長田。・・天皇大悦。賜[木威]田臣」。(巨勢・・
                六世紀以降に朝鮮問題に関与することによって台頭した新
                興氏族であったとみる説がある)。
 182 皇極 神主  『姓氏録』:市川臣・・の子孫が皇極天皇の時代に神主首
                と名付けられたという所伝が載せられている。
 303 皇極 田辺  『姓氏録』:によれば、史部に編入されたのは皇極朝のこ
                ろと推測される。
 434 皇極 陵辺  『姓氏録』:「斯羅。諡皇極御世。賜河内下山田。以解文
                書。為田辺史」。(事実は渡来系の氏族であったと考えら
                れる)。
 --------
 292 孝徳 竹    『皇太神宮儀式帳』:孝徳朝に置いたとみえる竹評の地の
                豪族。
 138 孝徳 麻績  『??』:一族には孝徳朝に伊勢の竹村の屯倉の監領に任
                じられた麻績連広背・・がおり・・。
 092 孝徳 榎井  『先代旧事本紀』:「物部荒猪公<榎井臣等祖・・>此連
                公。同(難波)朝御世賜大華上位」
 074 孝徳 齋部  『古語拾遺』遺文逸文:「至于難波朝長柄前朝白鳳四年。
                以小花下諱部首作斯拝祀官頭」
 356 孝徳 新家  『皇太神宮儀式帳』:孝徳朝の立評時に度会山田原に屯倉
                が立てられた際の督領として新家連阿久多。
 470 孝徳 和薬  『姓氏録』:「善那使主。天万豊日天皇<諡孝徳>御世。
                依献牛乳。賜姓和薬使主」。(「自出呉国主」)。
 309 孝徳 垂水  『姓氏録』:阿利真公が孝徳朝に垂水公の姓を賜った。
 056 孝徳 伊豆  『矢田部文書』に収める「伊豆国造伊豆宿禰系譜」:若多
                祁命の子の田狭乃直に「難波朝廷為大日下部」
 --------
 038 斉明 荒木田    『二所太神社例文』の「荒木田遠祖奉仕次第」:荒木
                    田神主首麿に「賜荒木田姓。斉明天皇御代奉仕」・・
                    とある。(祭主の地位にある中臣氏と擬似的同族関係
                    にあった)。
 326 斉明 利波  『越中石黒系図』:利波古臣の曾孫財古臣の譜文に「岡本
                朝(斉明朝か)為利波評督」。
 083 斉明 宇努  『姓氏録』:「出百済國・・七世孫衣古之裔孫。中石男。
                斉明天皇御代。賜宇努首」。(百済系渡来氏族)。
 448 斉明 武蔵  『姓氏録』:斉明天皇の代に蘇我蝦夷によって物部直・神
                主首と号せられ、これによって臣の姓を失い、・・
 177 斉明 西文  『西琳寺縁起』:斉明天皇五年(六五九)正月に仏像の造
                顕された。

 −−

 これを見ると、舒明・皇極も結構ありますね。推古が怪しく見えるのが何
ともいえない(渡来系を除くと、大貞の年代観が「上宮太子摂政之年」とな
っている。簀秦の出典は『聖徳太子伝暦』だし・・)。

 孝徳の部分をみると、榎井=大華上、齋部=小花下という冠位が見えるが、
舒明・皇極・斉明では冠位がみえない。まあ、これは彼らが冠位の制度をと
っていなかったか、冠位を与える趣味がなかったためかもしれないが・・。

 舒明・皇極との関係を伝えている氏族について検討してみます。

 −−

 009 舒明 商長  『姓氏録』:(渡来系氏族であったとみられる)
 303 皇極 田辺  『姓氏録』:(事実は渡来系の氏族であったと考えられる)。
 434 皇極 陵辺  『姓氏録』:(田辺と同一記事、渡来系の氏族?)
 221 皇極 巨勢[木威]田  『姓氏録』:
 083 斉明 宇努  『姓氏録』:(百済系渡来氏族)。

 まず、舒明・皇極に近従していたとみられる人物は、

 舒明の商長の宗麿          (呉国の秤をもたらしたので商長の姓を負った)。
 皇極の田辺史の斯羅        (河内下山田に住み、文書を解した)
 皇極の巨勢[木威]田の荒人  (佃葛城長田を開墾したので天皇が大悦した)。
 斉明の宇努の中石男        (宇努首を賜った)

の4人しか見えない。そのうちの3人(商長、田辺史と宇努)は渡来系と推測
されている。残りの巨勢も六世紀以降に朝鮮問題に関与していた氏族と思われ、
荒れ地を開墾したとあるので、荒人は朝鮮半島から帰ってきて佃葛城長田に住
んだ可能性が高いと思う。

【追加情報】(9)舒明と「豊・璋」

 −−

 182 皇極 神主      『姓氏録』:市川臣・・の子孫が皇極天皇の時代に神
                    主首と名付けられたという所伝が載せられている。
 038 斉明 荒木田    『二所太神社例文』:首麿が斉明天皇御代奉仕

 荒木田は伊勢神宮の神主で中臣の部下だったらしい。中臣氏と擬似的同族
関係も指摘されているので、中臣の年代観に配慮している可能性が高い。斉
明天皇御代奉仕というのは天皇に近従したというのではなく、神主として伊
勢神宮に奉仕したのだろう。

 皇極の神主首も荒木田と同様の伊勢神宮関係ではないか?。「伊勢神宮で
は神主を姓とする氏族が奉仕していた」とある。とすると、これも伊勢神宮
の親分(祭主)の中臣氏の年代観の影響が考えられる。

 −−

 326 斉明 利波  『越中石黒系図』:財古臣「岡本朝為利波評督」。

は越中の人らしい。また、「岡本朝」という舒明か斉明か分からない文字を
用いている。どれくらい畿内の事情に詳しかったのかは不明。

 −−

 448 斉明 武蔵  『姓氏録』:斉明天皇の代に蘇我蝦夷によって物部直・神
                主首と号せられ、これによって臣の姓を失い、・・

 この記事の主体は蘇我蝦夷であって、斉明ではない。

 −−

 177 斉明 西文  『西琳寺縁起』:斉明天皇五年(六五九)正月に仏像の造
                顕された。

 この記事は、年号としての意味しかないと思うが、原文がなく翻訳だけ。
分析できない。(#02102 参照)。

【追加情報】(16)帝説裏書の翻訳文

 なお、次の記事も渡来系の氏族の伝承。渡来時期の年号として「小治田・
飛鳥二朝庭時」と言っているだけ。

 273 舒明 前部          『日本後紀』:  (高句麗系渡来氏族)。
 214 舒明 卦婁          『日本後紀』:  (前部と同一記事)

 −−

 まとめとして、舒明・皇極に近従していた人物として、呉や朝鮮半島から
来た思われる、無冠の4人(商長の宗麿、田辺史の斯羅、巨勢[木威]田の荒
人、宇努の中石男)が検出できた。

 彼ら4人が近従していたのは『天智の父母としての「舒明B」「皇極B」』
(#02020、#02028)だったのではないだろうか?。

  熊 谷 秀 武

【追加情報】(2)祖先のxxがxx天皇に



 【追加情報】(12)第一次遣唐使

02128/02133 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 第1次遣唐使+高表仁来日
( 2)   98/10/10 21:37  01922へのコメント

 #02122 本間さんの『中国史書の「倭」の徹底解明(資料篇-下)』に

》(9) 国内文献(遣唐使及び唐からの使者の年次)
》
》630(貞観4):8月、第1次遣唐使。(日本書紀)
》632( 〃 6):8月、高表仁来日。(〃)

という日本書紀の部分と中国史書の

》(1)『通典』辺防一 倭
》
》631:大唐貞觀五年、遣新州刺史高仁表持節撫之。
》  ・・・
》(2)『旧唐書』倭国伝
》
》631:貞觀五年、遣使獻方物。

の部分とがリストアップされています。これらの記事は対応しており、『高
表仁は、中国を舒明三年に出発し、舒明四年の八月に日本に到着したという
だけのことで、年代の矛盾などない(#02010)』とされています。

 その通りだと思います。つまり日本書紀の舒明紀のこの部分は事実の概要
において信頼できます。

 では、「日本書紀の舒明紀のこの部分が信頼できる」ということは、その
時の日本列島の天皇が天智の父親であったという傍証になるでしょうか?。

 #02121:に中国文献の原文があげられています。

》【資料1】「通典 邊防第一 倭」全文
》  ・・・
》β 大唐貞觀五年、遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至。仁表無綏遠之才、
》 與其王爭禮、不宣朝命而還、由是遂絶。
》  ・・・
》【資料4】「舊唐書 列傳第一百四十九上 倭國・日本」全文
》  ・・・
》β 貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遣新州刺史高表
》 仁、持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。

 これを見ると、高表仁は王(か王子)と喧嘩をして帰ってしまったように
書いてあります。朝命も述べず、返事ももらわずに帰ったので、残念ながら
日本側の王の状況はまったく見えてきません。

 つぎに #02010 には日本書紀の原文が掲げられています。

》A.『日本書紀』舒明2(630)年8月条
》
》  秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。
》
》B.同4(632)年8月〜5(633)年正月条
》
》  四年秋八月、大唐遣高表仁、送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧
》 旻及勝鳥養、新羅送使等從之。
》  冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等、泊于難波津。則遣大伴連馬養、迎於
》 江口。船卅二艘及鼓吹旗幟、皆具整飾。便告高表仁等曰「聞天子所命之使、到
》 于天皇朝迎之」。時高表仁對曰「風寒之日、飾整船艘、以賜迎之、歡愧也」。
》 於是、令難波吉士小槻・大河内直矢伏、爲導者、到于館前。乃遣伊岐史乙等・
》 難波吉士八牛、引客等入於館。即日、給神酒。
》  五年春正月己卯朔甲辰、大唐客高表仁等帰國。送使吉士雄摩呂・黒麻呂等、
》 到對馬而還之。

 ここには、沢山の人の名前が出てきます。彼らの情報から何か得られない
でしょうか?。彼らについての岩波文庫版の説明をまとめてみます。

 【第1次遣唐使+高表仁来日の関係の人々】

 三田耜        推古22.06.13にも「大唐に行った」とあります。犬上君は
                近江の豪族で日本武尊の後裔。旧事本紀では物部系の矢田
                部の御嬬(ミタスキ)と同一人物とする。(4、p.129)。
 藥師惠日      推古31.07唐から来日、舒明02.08遣唐、 白雉05.02遣唐。
                『続日本紀』天平宝宇02.04に記録がある。
 大伴連馬養    「馬飼ともいう。本名長徳。皇極元年、舒明天皇の殯宮に
                小徳として誄した」とあるから、舒明・皇極に近い人物と
                みられる。『公卿補任』に記録があるらしい。
 難波吉士小槻  他に見えず。難波吉士は朝鮮系の氏族(岩波文庫版日本書
                紀3、p.225)。
 大河内直矢伏  他に見えず。
 伊岐史乙等    「伊岐史は・・自出長安人劉家楊雍也・・」という氏族の
                説明がある。しかし、伊岐史乙等という人物についての説
                明はない。『姓氏録』『松尾社家系図』に何か情報がある
                のかも知れない。
 難波吉士八牛  他に見えず。
 吉士雄摩呂    他に見えず。
 黒麻呂        他に見えず。

 三田耜:旧事本紀での伝承は、当然ながら、推古天皇の下での、遣唐の記
録です(『先代旧事本紀』p.491、推古22、「大唐」になっている)。

 藥師惠日:『続日本紀』天平宝宇02.04の記録というのは 『徳来の五代目
の孫の恵日は、小治田朝廷(推古天皇)の御世に、大唐国に派遣され、医術
を習得しました。』(講談社学術文庫版『続日本紀・中』、 p.186)という
もの。残念ながら、恵日の子孫は恵日が舒明に派遣されたとは書いていない。
やはり、推古期での記録しか、子孫は伝えていない。

 * 小治田朝廷は隋から唐に替わったあとの630年代まで存在したのだ
    ろうか?。

 大伴連馬養:「皇極元年、舒明天皇の殯宮に小徳として誄した」とあるか
ら、日本書紀によれば舒明・皇極に近い人物とみられる。『公卿補任』は要
調査かもしれない。

 「難波吉士小槻」〜「黒麻呂」:高表仁関係の大伴以外の人物についての
個人情報はない模様。彼らの子孫は祖先の高表仁関係の業績を、何故か、誰
一人自慢しなかったらしい。

 小槻(オツキ)と乙等(オト)とは名前が似ている。矢伏(ヤフシ)と八
牛(ヤウシ)も似ている。日本書紀の書き方でも「小槻と矢伏に令して・・
すなわち乙等と八牛を遣わして」とあるので、日本書紀の作者も同一人物と
みなしていたのかもしれない。同一人物だとすると、彼らの伝承は複数の氏
族(大河内直系、難波吉士系、伊岐史系)が異なった名前で伝えていた可能
性が高い。では、彼らは、何故、姓氏録などで彼らの伝承を伝えなかったの
か?。

 「舒明天皇のとき」という伝承ではなかったので、公開できなかったので
はないか?。

 * 大伴、難波吉士、大河内直は安閑紀にもでてくる(すべて屯倉の関係
    の記事)。伊岐史の乙等=難波吉士の小槻なら、第一次遣唐使に出てく
    る人物の全員の氏族が安閑紀にもでてくることになる。しかし、古事記
    の安閑の段にも旧事本紀の安閑の段にも、彼らは出てこない。日本書紀
    の安閑紀と舒明紀のこの部分とは何か関係があるのか?。安閑01.10.15
    に大伴の金村の言葉として「小治田の屯倉、難波の屯倉」というのが出
    てくる。日本書紀の作者は630年代の彼らの存在を安閑紀(534-536)
    にシフトして記載したのか?。

 まとめ:『公卿補任』『姓氏録』『松尾社家系図』が未調査なので、結論
は出せませんが、今のところ、舒明紀の第1次遣唐使+高表仁来日の関係で
書かれている人々が仕えた天皇が天智の父親であるという裏付けはとれませ
んでした。

 * 『公卿補任』には大伴連長徳について、どんな記録があるでしょうか?。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(13)小治田朝→難波朝

 次の文は、推測混じりなので、「市民の古代」への投稿には入っていませ
ん。『【追加情報】(12)第一次遣唐使』を発展させた形になっています。

 事実として重要なのは、『日本書紀や、三田耜や藥師惠日の子孫が伝えて
いる「小治田朝(推古)での遣唐使」は、推古22年(615年)の事実と
しては確認できない』ということです。

 おそらく、630年の遣唐使が「小治田朝の22年の遣唐使」と使えられ
ていたのではないでしょうか?。

 ということは、「小治田朝」は実際には630年代まで続いていたのでは
ないか、という結論になります。この結論は「舒明朝」の不存在の一つの理
由になります。

02138/02138 GGB03124  熊谷秀武         RE:中国史書の「倭」の徹底解明(資料篇-下)
( 2)   98/10/11 14:09  02122へのコメント

 本間さん、ちょっと関係ないかもしれませんが、質問していいですか?。

 日本書紀の推古22.06.13、先代旧事本紀の推古22に「遣唐使」の記事があ
り、推古23.09(615年)に「大唐に至る」とあります。 この615年の
遣唐使(遣隋使?)に対応する中国史書の記載は、見つかっておりますでし
ょうか?。

  熊 谷 秀 武

02154/02157 GGB03124  熊谷秀武         RE:中国史書の「倭」の徹底解明(資料篇-下)
( 2)   98/10/18 00:52  02142へのコメント

 本間 腕 さん、こんにちは、熊谷です。レスありがとうございました。

》 私の知る限りでは中国史書には615年の遣使記事は存在していないようです。

 これを確認したかったです。(^^)v

》て一致しないし、このあたりは奇妙な現象だと思います。私もその理由は全く解
》明できていません

 私のモウソウによれば、日本書紀の作者たちが舒明を天皇にしたので、日
本書紀に615年の遣使が出現した、となります。

 1 607年(開皇二十年)の遣使の次は631年であり、615年の遣
    使は存在しない。
 2 631年の遣使は各氏族の伝承では「小治田朝の遣使」として伝えら
    れていた。
 3 日本書紀の作者は631年のころを舒明の岡本朝の時代としたので、
    「小治田朝での遣使」を主張する氏族の伝承は「推古22」に記載せざる
    をえなくなった。
 4 その結果、中国史書に存在しない615年の遣使が日本書紀に出現す
    ることになった。

  熊 谷 秀 武

02157/02157 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 小治田朝→難波朝
( 2)   98/10/18 00:53  01922へのコメント

 #02128:

》 【第1次遣唐使+高表仁来日の関係の人々】
》
》 三田耜        推古22.06.13にも「大唐に行った」とあります。
》  ・・・
》 藥師惠日      推古31.07唐から来日、舒明02.08遣唐、 白雉05.02遣唐。
》  ・・・
》 藥師惠日:『続日本紀』天平宝宇02.04の記録というのは 『徳来の五代目
》の孫の恵日は、小治田朝廷(推古天皇)の御世に、大唐国に派遣され、医術
》を習得しました。』(講談社学術文庫版『続日本紀・中』、 p.186)という
》もの。残念ながら、恵日の子孫は恵日が舒明に派遣されたとは書いていない。
》やはり、推古期での記録しか、子孫は伝えていない。

で舒明02.08の遣唐使の記事(630年、 中国史書では631年)に出てく
る2人が、子孫の伝承では『小治田朝廷(推古天皇)の御世に、大唐国に派
遣され』とあったり、日本書紀の推古22でも「大唐に行った」と記述されて
いたりします。

 推古22年(615年)の遣唐使に関して本間さんに確認をとったところ、
『私の知る限りでは中国史書には615年の遣使記事は存在していないよう
です』とのことでした。

 世界史辞典によると、唐の建国は618年、隋の滅亡は619年となって
いますので、615年は隋の滅亡の4年前ということになります。ですので、
滅亡前の混乱によって記録が消えてしまった可能性もあります。

 しかし、行った先が「大唐」になっている点と、記録好きの中国人が倭国
からの朝貢の記録をなくしてしまったとも考えにくいので、615年の遣隋
使は実際にもなかったと考える方が可能性が高いでしょう。

 とすると、推古22年の遣唐使という記録はどうなるのでしょうか?。

 おそらく、630年の遣唐使が「小治田朝の22年の遣唐使」と使えられ
ていたのではないでしょうか?。その様に考えた場合、小治田朝の元年は6
09年になります。

 もし、「小治田朝が36年で終了した(推古36.03.07)」という伝承もあ
ったとすると、小治田朝の36年は644年となり、孝徳の難波朝(孝徳、
大化01=645年)と繋がることになります。

 小治田朝01    609
 小治田朝22    630
 小治田朝36    644
  難波朝01    645

 #02013 のKANAKさんの質問でいえば、次のようになりますかな。

》B.別人物が「天皇位」にあったと想定する。

でも、その様な「想定」をもとに調査を始めたわけではありません。上の推
定も「おそらく」かける「もし」なので、確率は低いかもしれません。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(14)第4次遣唐使

 659年の第4次遣唐使が中国皇帝に「天皇はお元気か」と聞かれて「お
かげ様で平安に過ごしております」と答えたそうです。

 皇帝が尋ねた「天皇」というのは前回の654年の第3次遣唐使  (白雉
05.02)のときの孝徳天皇のことでしょう。ところが、 日本書紀のよれば、
この時点では孝徳は死んで斉明の時代になっていた、となっているんです。
ホンマに死んでいたのカイナ。

02234/02234 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 第4次遣唐使
( 2)   98/11/08 23:56  01922へのコメント

 また本間さんの発言を参考にさせていただきます。

 #02122:『中国史書の「倭」の徹底解明 (資料篇-下)』に次のようなもの
があります。

》(7)『新唐書』日本伝
》  ・・・
》659:明年、使者與蝦[虫夷]人偕朝。
》  ・・・
》 ただし“明年、使者與蝦[虫夷]人偕朝”の年次は次の『通典』の蝦夷伝の記事
》から判断したものである。
》
》γ 大唐顯慶四年十月、隨倭國使人入朝。(通典 邊防第一 蝦夷)

》(9) 国内文献(遣唐使及び唐からの使者の年次)
》  ・・・
》653(永徽4):5月、第2次遣唐使。(日本書紀)
》654( 〃 5):2月、第3次遣唐使。(〃)
》659(顕慶4):閏10月、第4次遣唐使。(〃)

よって、659年に遣唐使が行ったことは一応信頼できそうです。

 この時の遣唐使については斉明05.07.03に伊吉博徳の書が引用されていて、
次のような問答が記録されています。

        三十日に、天子が訊ねていわく、「日本国の天皇は平安に過ごして
        いますか」。使者は「天地の徳をあわせて、おかげ様で、平安に過
        ごしております」と答えた。

        (卅日、天子相見問尋之、日本國天皇、平安以不。使者謹答、天地
        合徳、自得平安)。

で、この時に中国皇帝が安否を尋ねた「天皇」というのは誰のことなのでし
ょうか?。前回の654年の第3次遣唐使 (白雉05.02)のときの天皇は孝
徳ですよね。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(15)新唐書

 中国史書だからといって信じられないものもある、という話しです。

02129/02133 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 新唐書
( 2)   98/10/10 21:37  01922へのコメント

 #02121:本間さんの『中国史書の「倭」の徹底解明(資料篇-上)』に舒明・
皇極の名前が出てきたのでびっくりしてしまいました。

》【資料2】「新唐書 列傳一百四十五 東夷 日夲」全文
》  ・・・
》(推古) 崇峻死、欽明之孫女雄古立。
》(舒明) 次舒明。
》(皇極) 次皇極。其俗椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦婦人衣純色[君
》 /衣]、長腰襦、結髪于後。至煬帝、賜其民錦綫冠、飾以金玉、文布爲衣、左右
》 佩銀[サ/(白爲)]、長八寸、以多少明貴賤。太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜
》 其遠、詔有司毋拘歳貢、遣新州刺史高仁表往諭、與王爭禮不平、不肯宣天子命
》 而還。久之更附新羅使者上書。
》(孝徳) 永徽初、其王孝徳即位、改元曰白雉、獻虎魄大如斗、碼碯若五升器。時
》 新羅爲高麗・百濟所暴。高宗賜璽書令出兵援新羅。
》(斉明) 未幾、孝徳死、其子天豐財立。
》  ・・・

 しかしどうやら、この記録は

 #02120:
》 『新唐書』の「大和一元史観」の情報源は、宋代に日本の使者が中国に提供し
》た『王年代紀』という一冊の書物だった。そして『新唐書』はほぼこの『王年代
》紀』の(天孫降臨に始まる)万世一系史観をほとんど鵜呑みにして書かれていた。

ということなので、日本書紀(かその同系の万世一系史観)がベースになっ
て中国側で記録されたもののようです。ですんで、舒明・皇極の実在性の傍
証にはなりそうもありません。

 * 本間様、毎度毎度、興味深い分析と、面白い資料を提供していただき、
    ありがとうございます。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(16)帝説裏書の翻訳文

 原文には干支しか書いてなかったものが、註釈によりxx天皇の名前が加
えられた例です。翻訳を信じてはいけないという話し。

02102/02102 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 帝説裏書の翻訳文
( 2)   98/10/04 16:11  01922へのコメント

 前の吉備池廃寺の話しの中に『西暦641年に造営が始まる山田寺』という
のがあったので、中央公論社の「日本の名著・聖徳太子」に入っている『上宮
聖徳法王帝説』(p.427)を見てみました。 舒明・皇極がたくさん出てきまし
た、いわく

        『注にいう。舒明天皇十三年のはじめに土地をならし、皇極天皇元年
        (六四二)、金堂を建てた。大化四年はじめて僧が住し、・・・山田
        寺がこれである〔中は承暦二年(一〇七八)南一房が写した真曜の本
        である云々〕』

と。これを読むと、「帝説は舒明・皇極を認めているようです」と書いてしま
いそうです。

 ところが、岩波文庫版日本書紀4、p.303をみたら、

        『辛丑(舒明十三)年始平地、癸卯(皇極二)年立金堂之、戊申(大
        化四)始僧住』

となっていました。カッコ内が後代の加筆とすれば、元の文章は

        『辛丑年始平地、癸卯年立金堂之、戊申始僧住』

となるでしょう。原文にはおそらく「舒明・皇極」の文字はなかったと思われ
ます。

 げに、翻訳は恐ろしい。原文を捜さねば・・。

  熊 谷 秀 武

02289/02293 GGB03124  熊谷秀武         RE:舒明と皇極 @ 帝説裏書の翻訳文
( 2)   98/11/24 01:55  02102へのコメント

》となっていました。カッコ内が後代の加筆とすれば、元の文章は
》
》        『辛丑年始平地、癸卯年立金堂之、戊申始僧住』
》
》となるでしょう。原文にはおそらく「舒明・皇極」の文字はなかったと思われ
》ます。

 当たりでした。『聖徳太子全集』(聖徳太子奉賛会監修、藤原猶雪編、龍
吟社、昭和19年7月1日初版)第3集、 p.17  と 『群書類従・第4輯』
(明治26年8月23日翻刻印刷、経済雑誌社)p.305で確認しました。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(17)彦人大兄の御名入部

02222/02222 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 彦人大兄の御名入部
( 2)   98/11/08 01:00  01922へのコメント

 #02191 のHONさんの書き込みに 「舒明」という文字が出てきましたの
でコメントしたいと思います。

》大化二年、皇太子の中大兄は自分と彦人大兄の御名入部の返却を申し出て
》います。公地・公民の律令政策に基づくものと云えばそれまでですが、忍
》坂彦人大兄の御名入部と名をだしているから、明かに忍坂の御名入部のこ
》とです。忍坂彦人大兄は息長眞手王の孫であり、父の舒明天皇を介して中
》大兄はそのまた孫として忍坂の御名入部を管理していたものと思われます。

 これの出典は、日本書紀の大化02.03.20 の記事と思われます。内容は

        皇太子が使いを送って次のように奏請した。「昔の天皇の時代には
        天下を混合して斉しく治めていたが、今は分離している。・・現為
        明神御八嶋国天皇が私に次のように聞いた。『群臣や国造が所有し
        ている昔の天皇の子代入部や皇子が個人的に所有している御名入部、
        皇祖大兄の御名入部やその屯倉などをどうすべきか』これに対して
        私は『天に2つの太陽はなく、国に二人の王はないので、天皇が全
        部所有すべきである。・・よって、入部524口と屯倉181箇所
        を献上いたします』と答えました」といった。

というもの。この文章には非常に疑問がある。まず、(1)この文章の構成
は、皇太子が天皇Aに「天皇Bが『・・』と言ったので、私は『・・』と答
えました」と奏請した、となっている。奏請した相手の天皇Aと、奏請文の
中で言っている天皇Bとは同一人物なのか?。(2)天皇Bにつき「現為明
神御八嶋国天皇」という後代の宣命文で使われるような表現が採られている
(岩波文庫版4、 p.275)。(3)「天下が今は分離している」は何を意味
するのか?。公地・公民の律令政策とはいっても、私的所有が残存している、
という意味では有り得ない。なぜなら、この直前の文章には『(回収した)
屯田を群臣及び伴造に賜はむ』とある。(4)皇太子が天皇に献上する入部・
屯倉が「入部524口と屯倉181箇所」というのはあまりに多くはないか?。

 ま、そういう疑問は別にして素直に読めば、内容的には『「皇太子」が彦
人大兄の御名入部を返却した』と読んでよいでしょう。

 で、ここで、ちょっと別の疑問も生じます。舒明が天皇になったとすると、
彦人の御名入部はいったん天皇の直轄地になったことになりますよね。

 舒明が、私的に相続していた御名入部を、天下を支配する地位に立った後
にも他の財産とは分離して管理しており、その死後に「皇太子」がその部分
を私的に相続した、ということも考えられなくもない。しかし、チと面白い
現象と思われる。むしろ、舒明は天皇ではなかったので、息長氏の一員とし
て舒明が相続した御名入部を、その子どもの「皇太子」が相続していたと考
えたほうがいいのではないだろうか?。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(18)泉涌寺

02006/02006 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 泉涌寺
( 2)   98/09/19 20:59  01922へのコメント

 #01956 のツリーの付け替えです。

 泉涌寺に『平安京の第一代天皇桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御
祖天智天皇、この三天皇が霊明殿に奉祀の特にお古い御方で、歴代天皇が奉祀
されている』そうです。

 これは平安京の第一代天皇桓武天皇のご先祖様認識(父:光仁、曾祖父:天
智)が反映されているものと考えられます。

 ここで問題なのは、天智の父母である舒明と皇極が祀られていないことです。
書紀によれば、天智は両親を舒明天皇と皇極天皇の2人の天皇に持ち、長期に
わたって皇太子をつとめて、彼らの皇位を承継したことになっています。桓武
天皇にとっては直系の天皇になるはず、と記載されています。

 しかし、桓武天皇にはその様な認識は薄かったようです。よって、桓武天皇
の認識ではご先祖として祀るべき天皇としての、舒明と皇極は存在しなかった
ようです。

 * 誰か、このモウソウを打ち破る実例を教えてください。

  熊 谷 秀 武

02029/02029 GGB03124  熊谷秀武         RE:泉涌寺:舒明と皇極は?
( 2)   98/09/21 00:22  02012へのコメント

 スズメ♂ さん、こんにちは、熊谷です。レスありがとうございました。

》|>ところで、「系統の交替」と「王朝交替」とは何が違うんでしょうか?。
    ・・・ ちょっと関係が遠い部分なので省略します ・・・

》 そうでしょうか。「天智天皇は舒明・皇極の皇位を継承したのだ」という(特
》別な)認識は必要でしょうか?それなら、さらに「舒明は敏達の皇位を継承した
》のだ」「敏達は欽明の…」「欽明は継体の…」と果てしなく続きませんか?

 それはないと思います。舒明の父親は彦人大兄、皇極の父親は彦人大兄の子
の茅渟王となっていて、どちらも天皇とはなっていません。ですので、直系の
天皇をたどると舒明・皇極に突き当たります。

 桓武天皇が皇位を承継できた最大の理由は、蘇我系天皇の時代に彦人系で、
かつ、親が天皇でない舒明が「即位」したことであり、舒明こそ、桓武天皇か
ら見て始祖といわれてしかるべきではないか、と思うのであります。

  熊 谷 秀 武

02105/02106 GGB03124  熊谷秀武         RE:舒明と皇極 @ 泉涌寺
( 2)   98/10/05 00:04  02006へのコメント

 桓武天皇が舒明・皇極を特別扱いをしなかったのは、特別に意識する必要
がなかったことを示すだけでではないか、という指摘と、

 皇位を遡ると神武までさかのぼってしまうので、祀るべき祖先を途中で切る
のは当然ではないか、という指摘がありました。

 まず、「皇位を遡ると神武までさかのぼってしまう」に関しては、舒明の父
親は彦人大兄、皇極の父親は彦人大兄の子の茅渟王となっていて、どちらも天
皇とはなっていません。ですので、日本書紀の記述に従って直系の天皇をたど
ると舒明・皇極に突き当たります。

 「舒明・皇極を意識する必要がなかった」に関しては、桓武天皇が皇位を承
継できた最大の理由は、蘇我系天皇の時代に彦人系で、かつ、親が天皇でない
舒明が「即位」したことであり、日本書紀の記述が事実であるなら、舒明こそ、
桓武天皇から見て始祖といわれてしかるべきではないか、と思うのであります。

 ほかに、「皇位継承の枝分かれ(特に父系で見て)において、天智がターミ
ナルであるからでしょう」という解答をいただいています。その解答はありう
ると思います。しかし、これだと、「舒明・皇極を祀って、天武系の天皇も祀
るくらいなら、舒明・皇極も祀らない」という系統の違いに基づく強い対立の
意識があったか、もしくは「天智が『王朝』の始祖である」という意識があっ
たか、というような問題になりそうなので、この点には踏み込まないことにし
ます。なんせ、後代の人(桓武天皇以降)の認識の問題ですから私にはよく分
かりません。

 * #02012 と #02029 のまとめですが、別のツリーだったので、 ここに置
    きました。m(_ _)m

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(19)吉備池廃寺

02101/02102 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 吉備池廃寺
( 2)   98/10/04 16:11  01922へのコメント

 『発掘された日本列島、’98新発見考古学速報』(朝日新聞社、文化庁編)
という本のp.43に「舒明」の文字がありました。

        『大和三山の一つの香具山の東北一キロ(桜井市吉備)にある農業用
        ため池「吉備池」の東南岸・・(の)堤が自然地形ではなく、人工的
        につき固められた基壇であることが明らかになった。・・その面積は
        法隆寺金堂の2.5倍近い。

          吉備池廃寺は、出土瓦の年代と桁外れの基壇規模などから、舒明天
        皇が639年に建立した幻の大寺『百済大寺』ではないかと推測され
        た。』

        『吉備池廃寺の軒瓦は、西暦641年に造営が始まる山田寺の瓦より
        もわずかに古い特徴を備えており、吉備池廃寺を百済大寺と推測する
        有力な根拠となった』

とある。

 まあ、結論としては、639年にここに大きな寺が建てられ、それが日本書
紀に言う百済大寺であったとしても、当時の日本列島の天皇が天智の父親であ
ったという証拠にはならない、と思います。考古学的な遺構で金石文などが発
見されて、築造時の天皇とか、誰の造営にかかるものかが証明されれば別です
が・・。

 日本書紀の記述のうちの、舒明11.07の「大宮と大寺を造作しむ」、 または
皇極 01.09.03(641年)の「朕、 大寺を起し造らむと思う」の記述の信頼
性は増した、とはいえる。しかし、百済大寺の築造年に関する書紀の記述が2
個あるという不審な点があることには変わりはない。

 * この寺の場所が後に「吉備」(桜井市吉備の吉備池)と呼ばれていると
    いうのが気になる。天智の祖母(皇極の母親)は「吉備姫」「吉備島皇祖
    母」と呼ばれている。百済宮、百済大寺というのは吉備姫からみの遺構な
    のではないか?。

 * モウソウによれば、吉備姫は641年に百済から帰ってきた人かその母
    親なので(皇極01.02.02)、百済宮や百済寺を作るにはもってこいの人物
    となる。

【追加情報】(9)舒明と「豊・璋」

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(20)大織冠伝

 タイトルに「その1」とありますが、「その2」以降はありません。鎌足
の曾孫の藤原仲麻呂が760年頃に編纂した、ひいお祖父さんの自慢話なの
で、馬鹿らしくなって止めてしまった。

02311/02312 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 大織冠伝 その1
( 2)   98/11/30 01:24  01922へのコメント

 大織冠伝(家伝、『群書類従・第四輯』明治26年8月23日翻刻印刷、
同年8月27日発行、経済雑誌社)を入手しました。著作権に問題はないと
のお墨付きをもらっていますので、原文を掲げながら考えてみたいと思いま
す。

 コメントを加えると墓穴を掘りそうなので、危なそうなコメントは削除し
てアップします。読み違いがありましたら教えてください。

 「→」は拙訳。
 「*」はコメント。

 舒明と皇極とは即位した天皇としては存在しない、というテーマからする
と、『大織冠伝』は悩ましい存在になりそうです。『大織冠伝』は不比等の
孫(=鎌足の曾孫)の藤原仲麻呂が760年頃に編纂したものらしい。内容
も日本書紀とほとんど同じで、日本紀の作成から40年も後の書物なので無
視してもいいのだが、・・。僕の見る所では日本書紀の種本として、日本書
紀より前に作られた内容のような気がしている。『大織冠伝』の最後の方に
『百済人小紫沙[託-言+口]昭明。才思穎抜。文章冠世。痛令名不傳・賢徳空
没。仍製碑文。今在別巻』という文字がある。この碑文が大織冠伝の元にな
っているように思える。百済人の昭明の碑文がいつ頃のものかは分からない
が、日本書紀の種本がこの碑文かその元になった中臣の伝承(もしくは不比
等の創作)から出ている可能性は高いだろう。とすると、内容的には日本書
紀よりも古いということになる。

  ・・・しかし、『今在別巻』のはずの碑文の記録が無くなっているので、
それが復元できない限り、使えないのかなあ?。

 −−

 家伝上〔大織冠伝〕

 内大臣。諱鎌足。字中郎。大倭国高市郡人也。
 其先自出天兒屋根命。世掌天地之祭。相和人神之間。仍命其氏。曰中臣。
 美氣古卿之長子也。母曰大伴夫人。
 大臣以豊御食姫天皇廿二年。歳次甲戊。生於藤原之第。

    → (略)

 大臣在孕。而哭聲聞於外。
 十有二月子誕。外祖母語夫人曰。汝兒懐妊之月。與常人異。非凡之子。必有神功。
 夫人心異之。将誕无苦。不覚安生。

    → 大臣(=鎌足)が孕まれたときに、外で哭く声が聞こえた。
        12月に誕生した。外祖母は夫人に語って曰く「汝の兒の懐妊の月、
      常人とは異っていた。非凡の子である。必ず神功が有るだろう」。
    夫人は心でお腹の子を異(非凡な人)だと思った。将に誕れんとす
      るときには苦はなかった。覚えずして、安らかに生れた。

    * 哭聲聞於外:家の外で慟哭の声が聞こえた、というのはどういう意味か?。
    * 「外祖母」って誰のことか?。
    * 「无」の字は「既」のツクリと同様に点が入っている。「旡(キ)」
      という漢字がFEPでは出てきたが、漢和辞典にはない。「なし」と
      読んでいるようなので「无(ブ、なし)」を当てた。

 大臣性仁孝。聡明叡哲。玄鑑深遠。
 幼年好学。博渉書傳。毎讀太公六韜。未甞不反復誦之。

    * 太公の『六韜』というのは問題の本らしい。鎌足の権謀の教科書か?。

 為人偉雅。風姿特秀。前看若偃。後見如伏。
 或語云。雄壮丈夫二人。恒従公行也。大臣聞此辞。而竊自負之。
 識者属心。名誉日弘。

  →    ひととなりは偉雅であり、風姿は特に秀れていた。前を看るとき
        にはうつむきかげん(偃)であり。後を見ときには伏している如く
        であった。
          或るひとが語って云く「雄壮な丈夫の二人が恒に公の行くところ
        に従っているようだ」と。大臣(=鎌足)は此の辞を聞いて竊かに
        自負した。
          識る者は(鎌足のことを)心にとめ、名誉は日ごとに弘まった。

    * 「偃(エン)」という字には「臥せる、寝る、倒れる、休む、やめ
      る、せきとめる、なびく、便所」などの意味があるらしい。あまり、
      「為人偉雅。風姿特秀」というイメージではないな。
    * 「公」とは誰か?。「二人」とは誰か?。「公」は蘇我の蝦夷で、
      「二人」とは入鹿と鎌足ということか?。「公」は鎌足で「二人」は
      「前看」と「後見」の様子が別人格の様だということか?。

 寵幸近臣宗我鞍作。福自己。威権勢傾朝。咄[口它]指[耄-老+麻]。无不靡者。
 但見大臣自粛如也。人咸恠之。

    →    (天皇に?)寵幸された近臣の宗我鞍作は福を自己のものとし、
        その威や権勢は朝を傾向けるほどであった。咄[口它]指[耄-老+麻]。
        靡(ナビ)かない者はなかった。ただし、(その鞍作でも)大臣 (=
        鎌足)を見ると自粛している如くであった。人はみなこれを怪しんだ。

    * 咸:カン、みな、ことどとく。
    * 恠:怪しむの旧字。

 甞群公子咸集于旻法師之堂。講周易焉。大臣後至。鞍作起立。抗禮倶坐。
 講[言乞]。将散旻法師撃目留矣。因語大臣云入吾堂者。无如宗我大郎。
 但公神識奇相。實勝此人。願深自愛。

    →    甞(カツ)て、公子たちが咸(コトゴト)く旻法師の堂に集まって、 周易
        を講義をきいたことがある。そのときに大臣(鎌足)は後からやっ
        てきた。鞍作は起立して抗禮(対等の挨拶)をして倶(トモ)に坐った。
          講義が終わって(講[言乞])将に解散しようとするときに、旻法
        師は(鎌足に)目を留めて、大臣(鎌足)に語って云く「吾が堂に
        入る者のなかで宗我大郎の如き(すぐれた)者はない。 但し、 公
        (鎌足)の神識と奇相は實に此人に勝っている。願わくは深く自愛
        せよ」と。

 及崗本天皇(舒明)御宇之初。以良家子簡授錦冠。令嗣宗業。固辞不受。
 帰去三島之別業。養素丘園。高尚其事。

    →    崗本天皇(舒明)御宇に初めに及んで、良家の子に錦冠を簡(エラ)
        んで授けて、宗業を嗣ぐように令した。しかし(鎌足は)固辞して
        受なかった。三島の別業に帰り去って、素を丘園に養った。高尚其事。

    * ここで、崗本天皇(舒明)が出てきてしまいましたねえ。鎌足が推
      古22=614=甲戌[11]の生まれとすると舒明01=+629=己丑 [26]には15
      歳ですか。
        「良家の子に」とあるので、この時に舒明が「錦冠を簡(エラ)んで授
      け」ようとしたのは鎌足だけではないらしい。
        「良家の子に・・宗業を嗣ぐように令した」とすると、その親たち
      の立場はどうなるのだろうか?。
  * この記事は書紀の皇極03.01.01に対応しそうだ。 岩波文庫版4、
      p.215には(日本書紀の)『この所、3年春正月朔とあるが、事実は、
      かなり以前からのことをまとめて書いたものである』としている。こ
      の解説者は家伝の方を「事実」とみているらしい。しかし書紀の書き
      方は『三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拝神祇伯。再三固辞不就・・』
      である。書き方から見れば明らかに皇極3年の話しである。この書き
      方が「かなり以前」の話しを意味するのであれば、書紀の記事の実際
      の年代は分からないとしか言いようがない。この記事の場合には偶々
      家伝に対応記事があるので「かなり以前」と分かるが、裏付けになる
      文献が見つからない大部分の記事の信頼性もこの程度と見るべきとい
      うことになる。

 俄而崗本天皇崩。皇后即位。王室衰微。政不自君。大臣竊慷慨之。

    →    俄(ニワカ)に崗本天皇は崩御し、皇后が即位した。 王室は衰微し、
        政治は君の自由にならなくなった。大臣(鎌足)はこの状態を竊(ヒ
        ソ)かに慷慨した。

    * 「俄(ニワカ)に」とは何時の事か?。原文では「帰去三島之別業。 養
      素丘園。高尚其事。俄而崗本天皇崩」と繋がっているので、鎌足が三
      島に帰った直後の事のように読むのが自然である。
        書紀を参考にすれば、舒明13=+641=辛丑[38]、鎌足27歳の時とい
      うことになる。13年間が「俄 (ニワカ)に」という一字で表現されてい
      るのか?。

 于時軽皇子患脚不朝。大臣曾善於軽皇子。故詣彼宮而待宿。相與言談。終夜忘疲。
 軽皇子即知雄略宏遠。智計過人。計特重禮遇。全得其専。
 使寵妃朝夕待養。居處飲食。甚異于人。
 大臣既感恩。潜告所親舎人曰。殊蒙厚恩。良過所望。
 豈無令汝君為帝皇耶。君子不食言。遂見其行。
 舎人傳。語於軽皇子。皇子大悦。
 然皇子器量不足與謀大事。

    →    時に軽皇子が脚を患って朝しなかった。大臣は曾(カツ)て軽皇子と
        親しかったので、彼の宮に詣でて、待宿した。言談して終夜疲れを
        忘れた。
          軽皇子は(鎌足の)雄略宏遠、智計過人を知り。特に禮を重く遇
        し、専(わがまま)を得させ、寵妃をして朝夕に待に居處や飲食を
        養わさせるように計った。甚だ人とは異なっていた。
          大臣は恩に感じて、潜かに親しい舎人に告げて曰く「殊に望む以
        上の厚恩を蒙ったので、汝の君を帝皇に為してみせよう。君子は言
        を食まず(嘘つかない)。行動を見よ」。
          舎人が軽皇子に伝えると皇子は大悦した。
          皇子は大事の謀を與(トモ)にするには器量不足であった。

    * 鎌足の陰謀始動ですな。「恩に感じて」は嘘で「陰謀に使えるかど
      うかを調べるために」というのが真意であったことは明らか。
    * この部分は書紀の皇極03.01.01とほぼ同じだが、書紀では『皇子大
      悦。然皇子器量不足與謀大事』の部分が『皇子大悦。中臣鎌子連。為
      人忠正。有匡濟心・・』というようになっており、鎌足の陰謀の意図
      と、軽皇子を見捨てたことは隠されている。
    * 日本書紀の皇極03.01.01(皇極03=644=甲辰 [41])の記事の中核は
      おそらく中大兄が蘇我倉大臣の少女と結婚した、ということだろう。
      とすると、翌年の「休留 (イヒドヨ)が蘇我の倉に子を産んだ」に対応し
      ているのかもしれない。

 更欲擇君。歴見王宗。唯中大兄雄略英徹。可與揆乱。而無由参謁。
 儻遇于蹴鞠之庭。中大兄皮鞋隨毬放落。大臣取捧。中大兄敬受之。
 自茲相善。倶為魚水。

    →    更に(陰謀を共にする)君を擇ぼうと欲して王宗を歴見すると、
        だた中大兄だけが雄略英徹であり乱を與に揆(ハカ)ることができそう
        であった。しかし参謁する機会がなかった。儻(タマタマ)蹴鞠の庭で遇
        (ア)って、中大兄の皮鞋が毬に隨って放落した。大臣は取って捧げ、
        中大兄は敬してこれを受けた。これより仲良くなり、魚と水のよう
        な関係になった。

 後崗本天皇(皇極)二年。歳次癸卯。冬十月。
 宗我入鹿與諸王子共謀。欲害上宮太子之男山背大兄等。
 曰。山背大兄。吾家所生。明徳惟馨。聖化猶餘。
 崗本天皇嗣位之時。諸臣云々舅甥有隙。亦依誅境部摩理勢。怨望已深。
 方今天子崩[組-糸+歹]皇后臨朝。心必不安。焉無乱乎。
 不忍外甥(外一作舅)之親。(以上疑脱何字)以成国家之計。
 諸王然諾。但恐不従害及於身。所以共許也。
 以某月日。遂誅山背大兄於班鳩之寺。識者傷之。
 父豊浦大臣慍曰。鞍作。如爾癡人。何處有哉。吾宗将滅。憂不自勝。
 鞍作以為已除骨[魚更]。方無後悔。
 安漢詭譎。徐顕於朝。董卓暴慢。既行於国。

    →    後崗本天皇(皇極)二年。歳次癸卯。冬十月。宗我入鹿は諸王子
        と共に謀って、上宮太子の子供の山背大兄らを殺そうと思って曰く
                「山背大兄は吾が家の生れである。明徳惟馨。聖化猶餘。
                崗本天皇の嗣位の時に諸臣が云々して舅と甥との間に隙が
                有る。また境部摩理勢を殺したので怨みも深い。いま天子
                が崩御して皇后が朝に臨んでいる。心に必ず不安があるだ
                ろう。乱をおこすに違いない。不忍外甥(外一作舅)之親。
                (以上疑脱何字)以成国家之計」。
     諸王は承諾しがた、身に害が及ぶのを恐れたためである。この結
        果、共に許す所となり、某月日に遂に山背大兄を班鳩之寺に誅した。
        識る者はこれを傷んだ。
     父の豊浦大臣は慍(イカ)って曰く
                「鞍作の如き癡人はどこに有るか。吾が宗門は将来滅びて
                しまうだろう。憂不自勝。鞍作は魚の骨を除いて後悔して
                いないようだ。安漢の詭譎(いつわり)が朝廷に顕われ、
                董卓の暴慢が既に国に行われてしまったようなものだ」。

    * 舅甥有隙:岩波文庫版日本書紀4、p.157に 「山背大兄王の母は馬
      子の女刀自古であるから、蝦夷と山背大兄とは叔父甥の関係にある」。
    * 詭譎:いつわり。
    * 安漢:分からなかった、どんな人物なのだろうか?。
    * 董卓:学研の漢和大字典によると「後漢代末期の将軍。・・字は仲
      穎。霊帝の死後、何太后を殺し献帝をたて、後漢の朝廷を滅ぼして勢
      力をもった。のち部下の呂布に殺された。?-192」
    * この記事は書紀では皇極02.11.01。
    * この記事がいちばん悩ましい。山背大兄は天皇になりそこなって、
      次も皇后がついで、天皇になりそこなったので反乱を起こすに違いな
      いとして、殺した、というのは、それはそれで筋が通っている。が、
      そういう筋書きを作ってから作文したようにも思える。蝦夷の発言は
      山背大兄を蘇我氏の屋台骨だと言っているのだろう。屋台骨であるた
      めには天皇でなければならないのではないか?。
    * 入鹿になぞらえた董卓は後漢の朝廷を滅ぼした人物らしい。山背の
      朝廷を滅ぼした、ということではないのか?。

 於是中大兄謂大臣曰。王政自出大夫。周鼎将移李氏。公如之何。願陳奇策。
 大臣具撥乱反正之謀。中大兄悦曰。誠吾之子房也。

    →    是に於で中大兄は大臣に曰く「王政自出大夫。周の鼎が将に李氏
        に移らんとしている。公は之を如何とす。願わくは奇策を陳べよ」。
          大臣は具さに乱を撥めて正に反すの謀をのべた。
          中大兄は悦んで曰く。誠に吾の子房であるな。

 −−

 問題は、舒明・皇極(舒明01=+629=己丑[26]〜皇極04=+645=乙巳[42])の
間の朝廷の存在が見えてこない。小治田朝→難波朝と直結しているように見
える、という事だったよな。

 その意味では、舒明の13年間が「俄 (ニワカ)に」という一字で表現され、
全体でも天皇の業績なしの2行、『及崗本天皇(舒明)御宇之初。以良家子
簡授錦冠。令嗣宗業。固辞不受。帰去三島之別業。養素丘園。高尚其事。俄
而崗本天皇崩』で済まされている、というのも問題なのかもしれない。

 日本書紀によると舒明11=+639=己亥[36]に新嘗祭を行っている。舒明が即
位したとしても、うんと短かったので、一般人の記憶には残らなかった、と
いうことか?。

 形式上の天皇が誰であれ、一般人から見れば蘇我の王朝=小治田朝=とい
う認識であった、という可能性もなきにしもあらずかな?。とすると、乙巳
のクーデターで小治田朝が終わって、難波朝になるということになる。

 山背大兄が天皇であった方が有り難いかも。推古朝(厩戸朝)+山背朝=
小治田朝という連続を意識しやすい。帝説には「山代大兄王(此王有賢尊之
心。棄身命而愛人民也。後人與父聖王相濫。非也)」とある。

  熊 谷 秀 武



 【追加情報】(21)威奈大村墓誌

 これは「市民の古代」に投稿した後で発見した、ちとやばい資料です。日
本紀が献上された720年より前の707年には既に「後岡本宮朝=斉明天
皇」という観念があったことは認めざるをません。ただ、この場合にはいろ
いろ事情があって、追号されたに過ぎない天武の母親の朝廷をでっち上げる
必要があったのではないかと思うわけです。

02618/02620 GGB03124  熊谷秀武         舒明と皇極 @ 威奈大村墓誌
( 2)   99/07/25 00:50  01922へのコメント

 ちとやばい資料を見つけてしまいました。

 『銘文と碑文』(今泉隆雄、『日本の古代14・ことばと文字』、中公文
庫)p.572 に威奈大村墓誌というのがありました。これは707年に埋葬さ
れた威奈大村の骨蔵器に記された金石文なので、720年の日本紀よりも前
の資料ということになります。

        卿、諱は大村、桧隈の五百野宮に御宇天皇(宣化)の四世、後の岡
        本宮の聖朝(斉明)の紫冠威奈鏡公の第三子也。卿、温良性に在り、
        恭倹懐と為す、簡にして廉隅、 柔にして成立す。 後の清原の聖朝
        (持統)、初めて務広肆を授く。藤原の聖朝(文武)、小納言闕け
        たり。是に於いて高門の貴兜、各員に備わらんことを望む。天皇特
        に卿を擢んでて、小納言に除し、勤広肆を授く。・・慶雲四歳(7
        07年)は丁未に在る四月廿四日を以ちて、疾に寝し、越城に終わ
        る。時に年四十六。ここに其の年冬十一月、乙未朔の廿一日乙卯を
        以ちて、大倭国葛木下郡山君里狛井山崗に帰葬す。

 このなかに『後の岡本宮の聖朝(斉明)の紫冠威奈鏡公』という文字があ
りました。これは軽視できません。

 遂に、斉明朝廷の証拠が出てきたるか?。

 −−

 でもねぇ・・。707年に46歳だとすると、662年(天智01)の生ま
れということになる。ということは、父親の鏡公は3男が生まれる前に斉明
から紫冠を受けたということになる。その当時の紫冠といえば、 天智03.05
に死んだ大紫蘇我連大臣がいる。3男が生まれるころといえば40歳くらい
かな?。その年で大紫蘇我連大臣クラスの冠をもらったんですかねぇ?。

 −−

 「威奈(偉那、韋那、猪名)公」を日本書紀で捜してみると次の通り。

 宣化01=+536   ・仁賢→橘仲姫×宣化→上殖葉(1)→(2)→(3)→ 偉那(イ
                  ナ)公、丹比公。
 白雉01=+650   ・穴門で白雉がとれたという祝いの席で、猪名(イナ)公
                  高見が雉の輿を運ぶ。
 天智01=+662   ◎威奈(イナ)鏡公→大村誕生(年齢逆算)。
 天智03=+664   ・(大紫蘇我連大臣が死ぬ。白村江の翌年)。
 天武01=+672   ・韋那(イナ)公磐鍬は近江側。ドジ踏んだ。
 天武01=+672   ・大紫韋那(イナ)公高見が死んだ。
 天武13=+684   ・13氏に真人:猪名(イナ)公も。
 文武11=+707   ◎威奈(イナ)大村が死ぬ(46歳)。

 これをみると、「威奈鏡公」=「韋那公高見」と見るのが自然ではないだ
ろうか。

 岩波文庫版日本書紀5、p.109 によると、同一人物とする説があるらしい。
高の音は「kog」なので「高見」をカガミと読むことが出来る、というもの。
しかし岩波文庫の解説者は別人説を採っている。理由は (1)音訓読みになっ
て不自然、(2)「同一人物と見るならば、 墓誌に後岡本聖朝紫冠と書かず、
近江朝紫冠と書いたはず」というもの。

 どうも、何か怪しげな雰囲気になってきた。(^^)v

 私としては同一人物説を採りたい。

 第一に、音訓読みが不自然というのは、書紀の作者があえて不自然な漢字
を当てたのだと思う。天武の奥さんの額田姫王の父親は鏡王であり「自出不
明」となっている。姫王は2〜5世の姫(p.113)とするなら、 鏡王は2〜
4世の王ということになろう。従って、「額田姫王の父親の鏡王」と「宣化
の四世の威奈の鏡公」とは同一人物の可能性がある。  同一人物でなくても
「鏡王」と「鏡公」との混同を避けるためにあえて別の漢字を当てたという
可能性があると思う。そもそも、「額田姫王の父親の鏡王」が自出不明とい
うのは、何か秘密のにおいがするではないか。天武朝において威奈の鏡公が
壬申の乱での敵対者であったとすると、その人物と額田姫王の関係を隠そう
とする意識が働くことはありうるのではないか?。

 第二に、墓誌に「近江朝紫冠鏡公」と書かなかった理由は、壬申の乱にお
ける韋那公高見と韋那公磐鍬の立場があると思う。662年生まれの威奈大
村は672年には11歳である。また大村は3男とあるので、上に二人の兄
がいたことになる。おそらく磐鍬は兄で高見は父であろう。磐鍬は大友側に
ついていて明白に賊軍である。高見も《天武上巻のいちばん最後の記述》と
して死亡記事が入っているので、壬申の乱の締めくくりとして死亡したもの
である。即ち、墓誌に「近江朝紫冠鏡公」と書いてしまえば天武朝の敵対者
というイメージを強調してしまうことになるのではないか。それで、あえて
「後岡本聖朝」の紫冠という書き方をしたのではないだろうか?。

 −−
【斉明が授けた冠位】

 斉明が授けた冠位、という視点でみるとどうなるか?。斉明が授冠してい
る人々を日本書紀から列挙してみると次の通り。

 斉明01.07.11  柵養の蝦夷9人、津刈の蝦夷6人に、冠各2階。
 斉明04.04     アギ田の蝦夷の恩荷に小乙上を授けて、渟代、津軽の郡領
                とする。
 斉明04.07.04  柵養の蝦夷2人に位1階。渟代の大領のサニグナに小乙上、
                少領のウバサに建武(※1)、勇者2人に位1階。津軽の
                大領の馬武に大乙上、少領の青蒜に小乙下、勇者に位1階。
                ツキラサの柵造に位2階。判官には位1階。渟足の柵造の
                大伴君稲積に小乙下。(※2)
 斉明05.03     (阿倍の比羅夫が問兎の蝦夷のイカシマ、ウホナを討って、
                彼らからシリヘシの郡領を譲り受けたので)、道奥と越の
                国司に位2階、郡領と主政に位1階。

    ※1:建武は大化3年〜5年に存在する冠位。この時点では廃止されて
          いるはず。
    ※2:小乙下(18)=位2階、建武=位1階か?。

 けっこう、相当、惨めなものがありますね。大化5年の冠位によれば、大
乙上は15番目、小乙下は18番目で、立身/建武は19番目の最下位の位。

 斉明さんが冠をあげる権限というのは、蝦夷関係でかつ相当下の位に限ら
れていたのだろうか。

 建武は大化3年〜5年に存在する冠位で、この時点では廃止されているは
ず。また、渟足の柵を作ったのも大化3年。従って、この斉明の授冠記事と
いうのは、孝徳の奥さん=間人(エハシト?)=天智の妹=が授冠した記事
が混じっているのではないかと思う。

 * 孝徳のお姉さん?=前の天皇?=であればこんなせこい授冠には関与し
    ないであろう。

 書紀の記述の信頼性を判断するために、書紀の記述を見てもしょうがない
ことではある。それはそれとしても、斉明が宣化の子孫の威奈鏡公に冠をあ
げたという記事が日本書紀には出てこないことも確か。

 −−

 結論としてはどうなんでしょうねぇ。707年の墓誌に『後の岡本宮の聖
朝(斉明)の紫冠威奈鏡公』という記述があるのは事実。その記載が事実で
ある可能性も否定できない。しかし、何らかの理由により(壬申の乱におけ
る政治的なマイナスイメージを避けるために?)、本来は「近江朝の紫冠威
奈鏡公」と書くべきところを『後岡本宮の』と書き換えた可能性もある。と
いう程度か?。

  熊 谷 秀 武 http:://member.nifty.ne.jp/take_tk


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