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Last: 2004-07-04(Sun)

たけ(tk)訳『大学』コメント付き版

コメントなし版は daigaku1.html にあります。

0101

1 大学之道

大学之道           大いなる学問の目標(道)は次の3つである。

在明明徳        (1)自己の社会的な徳性(明徳)を社会に明らか
               にするのだという意欲をもつこと、

在親民         (2)そのために、社会を構成している人々(民)
               を深く理解し、彼らが何を欲し、どのように
               考え、行動し、評価するのか、自分が何をす
               れば彼らはどのように反応するかを深く理解
               (親:ちかしく)すること、

在止於至善       (3)そして、自分自身を、常に、適切な判断をな
               しうる状態(至善)に維持する(止)こと、
               である。
* 主権者教育:民主主義が可能になるためには、主権者たる国民が、主権者として振る舞うために必要な知識と判断力を持っている必要がある。その知識と判断力を与える教育、すなわち主権者教育を行うことが必要である。『大学』は主権者としての判断力の育成の重要性を説いた本である。

* 情報公開:民主政の前提となるのは、情報公開と主権者教育である。主権者たる国民が政治的な役割を果たすためには、彼らが判断を行うために十分かつ適切な情報が与えられていなければならない。それに加えて、彼らがその情報から適切な判断を下すための判断能力を持っていなければならない。

* 国民はその民度に応じた政治しか持てない。国民の政治的判断能力が劣れば、為政者の政治的判断能力も同じレベルになる、ということを意味する。民主制であれ、非民主制であれ、国民全体の政治的判断能力を高めることが必要なのである。本書が書かれた時代はもちろん非民主制の時代である。その時代においては、国民が為政者の態度を見抜き、その影響を受けて社会全体が大きく変わるという形で為政者の判断能力の必要性を述べている。民主制においては、これは国民全体の問題である。

* 『大学』:ここでいう「大学」というのは直接的には紀元前136年に設置された武帝の官僚養成学校のことらしい (岩波文庫版、p.23)。

* 『大学』:『大学』で書かれている内容は官僚に限らず、政治的な任務を負った人々すべてにとって必要な事柄である。民主政治においては、主権者=人民=も政治的任務を負っている。従って、民主政における主権者教育の要点を書いた本として読むことができる。『大学』自体も後段( 0301 )で「自天子以至庶人壱是皆:統治者から庶民に至るまでひとえに皆」判断力を持つべきである、と言っている。

* 「大学之道」:将来政治的活動を行うべき人材を育成することであり、その教育の目標を意味する。民主制においては、個々の国民が、投票や表現活動を通じて政治的な役割を果たしてく能力を育成するための教育、主権者教育の目標を意味する。

* 「明徳」:岩波文庫では「明徳」を「輝かしい徳」といったように曖昧に理解している。しかし、「明徳」は「陰徳」との対比で理解すべきものである。「陰徳」が個人の内面の徳、もしくは社会から離れた隠者の徳であるのに対比して「明徳」を理解すべきである。すなわち「積極的な社会的活動における徳性」が「明徳」に当たるはずである。ここでは、「社会的な徳性」と理解した。

* 「明徳」:国民が政治的役割を果たす際には、彼の社会的徳性を明らかにする、という視点で行動するようにならなければならない。投票行動が利益誘導に釣られたり、表現活動がもっぱら私的利益のためであることを隠してあたかもそれが公共の利益であるかのように行うのは望ましくない、と言っている。

* 「親民」:社会的な徳性を発揮するためには、公共の利益とは何かを判断できなければならない。何が公共の利益かというのは、簡単には分からない。それを判断するためには、その前提として社会を構成する人々を理解する必要がある。すなわち(1)社会を構成している人々の欲求、(2)行動様式、言動のパターンとその結果、(3)人々にとっての客観的利益・主観的満足についてよく理解することが必要である。また、市民エリートや為政者として、また、表現活動や政治活動を通じて他者に影響を与えていこうとするのであれば、(4)社会を構成する人々とうまくつき合う術も学ばなければならない。(5)彼らが自らの働きかけに対してどう反応するのか、すなわち、市民エリートや為政者がどういう行動をとると、人々はどのような態度を取るようになるのか、も知っておく必要がある。それらを総合して 「民に親(ちか)しくす」と解釈した。 後段( 1201 )に「民之所好好之、民之所悪悪之、此之謂民之父母:民衆が好むものを好み、民衆が憎むものを憎む、これを「民衆の父母」という」とか「道得衆則得国:民衆の支持を得れば国を得ることができる」とある。

* 「止於至善」:「善」というのは最終的には社会的・政治的に好ましい結果である。そのような結果を生む判断である。また、そのような好ましい判断を為しうる状態に自らを維持しておくことである。好ましい判断ができるように心の平静を保つことである。要するに、後段で述べられている格物から心正までの内面的修行が「善」の内容であり、「修身」で獲得すべき内容である。このような人格状態が、ここでの「善」である。そのような人格状態を維持できるようにする、という目標が「善に止まる」という意味である。

* 「明明徳」「親民」「止於至善」を総合的に理解するなら、学習者の主観的意欲 (明徳を明らかにする)と判断の前提となる社会認識(民に親しくす)および判断能力(至善に止まる)の三本が養成すべき内容であると言っていることになる。

0102
* 以下は「止於至善」:自分自身を、常に、適切な判断をなしうる状態(至善)に維持する(止)こと、についての説明。

* 主権者たる国民が主権的権利を行使する場合には、冷静で広い配慮に基づく判断が要求される。

知止而后有定         ものごとを有りのままに知る状態(知)を
               維持(止)すれば定見(定)を持つことが
               できる(有)。

定而后能静          定見(定)があれば冷静な観察・考察(静)
               が可能になる。

静而后能安          冷静な考察(静)があれば自分の判断に自信
               がつく(安)ようになる。

安而后能慮          自分の判断に自信が持てるようになれば(安)
               多方面の利益を総合的に考慮する(慮)こと
               が出来るようになる。

慮而后能得          多方面への配慮(慮)があって初めて、よい
               結果(を生む判断力)を得ることが出来る。

物有本末           ものには、初めに行うべきもの(本)と、そ
               の結果として出てくるもの(末)とがある。

事有終始           ことには終りと始まりとがある。

知所先後           先にすべきことと後にすべきことを知ることが
則近道矣           近道なのである。
* 「知止→定→静→安→慮→得」という流れだが、これは後述の
  「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」と同じ流れというべき。

0201

 2 格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下

古之欲明明徳於天下者、    昔、自分の社会的徳性(明徳)を天下に明ら
      先治其国     かにしようとした者は、その前にまず自分の
               国を治めた。

欲治其国者、先斉其家     国を治めようとした者は、まず身内の事柄
              (家)であっても、他の家や組織に対するの
               と同様に客観的に公正に認識し、判断する
              (斉:ひとしくする)ようにつとめた。

欲斉其家者、先修其身     身内(家)に対して好悪にとらわれずに公正
               に判断(斉)しようとした者は、その前にま
               ず自分の身を修めた。

欲修其身者、先正其心     自分自身を修めようとした者は、心に偏りを
               なくし、心のバランスを保つ(正)ことにつ
               とめた。

欲正其心者、先誠其意     心に偏りがなく、心のバランスを保とう(正)
               とした者は、まず自分の意(こころ)をもの
               ごとをあるがままに受け入れ、ウソごまかし
               のない状態(誠)を維持しようとした。

欲誠其意者、先致其知     自分の意(こころ)をウソごまかしのない状
               態(誠)にしようとした者は、そのためにま
               ず、知ることを極め(致)ようとした。

致知在格物          知ることを極める(致知)というのは、もの
               ごとをあるがままにその本質を理解する(格
               物)と言うことである。
* 「欲明明徳於天下者」:平社員であっても社長になったつもりで判断を下すべきである。平の国民であっても為政者になったつもりで主権的権利を行使すべきである。しかし、そうはいっても、平社員として決定すべき事項と社長としての決定とは異なる。自分のなすべきことの範囲で決定していかなければならない。主権者たる国民であっても、主権的権利の行使だけが仕事ではなく、自分の生活や家族のことも考慮しなければならない。しかし、大きな判断も小さな判断も適切な判断が必要になるという点では同じである。つまり、「適切な判断能力」をどうやって獲得するかが、主権的権利の行使の場面でも私生活の場面でも必要になるのである。

* 「欲治其国者」:ここでいう「国」というのは今でいえば、自分の会社といった程度か? 政党とかNGO団体かも知れない。

* 「斉家」:「家とひとしくす」と読む。家の中で家人を公正に、好き嫌いにとらわれずに判断し、扱うこと。また、自分の家と他人の家とを公正に扱うこと、と理解した。辞書によると「斉民」といえば人民を平等に扱う、経済格差をなくすという意味になる。「斉家」も同様に「自家」と「他家」とを公正に扱う、「自家」の内部の問題も公正に判断するという意味である。後段( 0901 )の「斉家」の説明に「人之其所親愛而譬焉:人は親しみ愛するものがあると判断に偏りが生じてしまう」(愛するからといって判断を偏らせてはいけない)というのが出てくる。

* 「斉家」:自分の家の中で公正な判断がなされ、他家との公平にも配慮が行き届き、不平もなくまとまっていれば、国政でもうまくいくだろう。逆に、国政において自分の家(身内の企業)を依怙贔屓したり、自家に紛争や不満が渦巻いているようでは国政に不正が蔓延し、不平が渦巻き、国としてのまとまりがつかなくなるだろう。このことも後段で強調されている。

* 「斉家」:岩波文庫版では「斉」を「ととのえる」と読んでいる。日本語で「家をととのえる」というと何となく、事態に対応して準備万端、命令系統をととのえておくこと、つまり、家長が家の構成員に対して支配権を確立しておくようなニュアンスに聞こえてしまう。しかし、このようなニュアンスで読むのは間違いである。「斉」を「ととのえる」と読むのは、大小が不揃いのものの揃える、という意味だ。誤解を招かないように「ひとしくす」と読んだほうがよい。

* 「修身」と言えば戦前の「修身の教科書」が思い浮かんでしまう。しかし、本家『大学』の「修身」は戦前の「修身」とは天と地ほどに離れている。戦前の「修身」といえば、「滅私奉公」であり、国家のために死ぬこと、天皇の名の命令には何も考えずに服従すること、というイメージがある。しかし、『大学』の修身はそれとは正反対である。『大学』の「修身」とは客観的に物事を認識し、心を自由にし、総合的に判断・決断していく判断力を高めることである。戦前の「修身」のイメージは文部省による換骨奪胎というやつだ。本来有益な言葉を有害な言葉に代えてしまう魔法を使ったのだ。魔法にかかってはいけない。

* 「修身、斉家、治国、平天下」のように、「修身」から始める言い方にも問題がある。「修身」とは何ぞや、という認識を欠く可能性があるからだ。「格物、致知、誠意、正心、修身、・・」というように、ちゃんと、「格物」から言うようにしよう。そもそも「身を修める」といっても何のことか分からないだろう。「修身」の中身は「正心」以下に説明されているのだ。

* 「正心」:「誠意」との関係がわかりにくい。「心」と「意」では日本語では共に「こころ」になってしまう。「誠意」に関しては第2章に説明がある。それによると、「心を自由にしてあるがままに感じること」を意味するようだ。 「意 (こころ)を自由にすること」が「心を正すこと」に繋がり、「心を正すこと」が「身を修めること」の直接的な方法と言うことになる。とすると、「心を正す」というのは「適切な判断能力を保つ」という意味になる。第3章にそのことが書かれている。

* 「誠意」:日本語の「誠意」とは、同じような、違うような・・。中国語の「誠」は「うそ、ごまかしが無い状態」を言うらしい。

* 「致知」と「格物」:「致知在格物」という書き方であり「欲致知者、先格物」にはなっていない。他と異なり「先ず」というような先行後行の関係に無いことを示しているようである。(後段では他と同じ書き方になっているが…)。おそらく、ほとんど同じ意味だという意識があるのだろう。

* 「格物」:ものにいたる。「物」とは、自分自身、他人、社会、組織、自然、宇宙などの客観的存在であり、それらが持つ関係性や法則性も含めて考えるのがよいだろう。人間の心理や集団心理、為政者の行為とそれに対する民衆の反応といった社会的な法則性を知ることが為政者にとっては重要になるはずだ。経済学や政治学、法律学といった社会科学全般についての広い知識が要求されるということだと思う。そして、単に知識を有するのではなく「物にいたる」という程度にまで感覚的に理解できるまでに体得していることが必要だということだろう。

* 「格」(いたる)というのは、それらについて、現象としてあるがままに認識すること、客観的に認識すること、それらの法則性や原因結果についての知識を持つこと、であろう。

* 「格物」:王陽明は「格物」を「ただす」と読んで行動的な意味を与えている。これにも一理ある。「知る」ということは、ものと人間との間の関係であり、人間の行動の一つだからだ。仏教に「聞慧」「思慧」「修慧」というのがある。孔子は「己の欲するところに従えども則をこえず」と言っている。知識の極みは行動的なのだ。ただし、行動的であることが知識の極みであるわけではない。

* 古訓で「格物・致知」を道徳法則の知識と理解するものもあるようだが、そうではなかろう。出発点にあるものは客観的な認識であり、その認識に基づいた配慮の結果として、道義的な法則性もでてくるものだ。人々の欲求を正しく認識することにより、なすべき事に関する決断がなされるはずだ。「格物」は存在の知としか考えにくいが、「致知」を道義的な法則性の理解と考えることは可能であろう。

0202

* 以下では同じことを、逆から説明している。

物格而后致知         ものごとをあるがままに理解する状態(物格)
               になってはじめて、知るに到った(致知)と
               いうことができる。

致知而后意誠         知るに致ったという状態になれば、意(ここ
               ろ)はウソごまかしのない自然な状態(誠)
               になる。

意誠而后心正         意(こころ)にウソごまかしがない状態(誠)
               になれば、心のバランスが保たれる(正)よ
               うになる。

心正而后身修         心のバランスが保たれるようになれば(正)、
               身を修めたと言うことができる。

身修而后家斉         身が修まった後にはじめて、身内の事情(家)
               に対しても公正(斉)に判断をすることがで
               きるようになる。

家斉而后国治         身内の事情(家)に対して公正(斉)に判断
               することができるようになって初めて、国が
               治まるのである。

国治而后天下平        国が治まった後にはじめて、天下を平和にす
               ることができる。
* 「家斉而后国治」:日本では、私利私欲、党利党略、省利省益のための政治でも、国民は文句を言わないじゃん。

0301

3 以修身為本

自天子以至庶人壱是皆     統治者から庶民に至るまでひとえに皆
以修身為本          己の身を修めることから始めるべきである。

其本乱而末治者否矣      本(もと)が乱れればすべてが治まらなくなる。

其所厚者薄而         本来厚く扱うべきものを薄く扱い
其所薄者厚          薄く扱うべきものを厚く扱ったのでは
未之有也。          うまくいくはずがないのである。

此謂知本           これが本となる修身を知るということである。

此謂知之至也         これが知るに至るということである。
* 「自天子以至庶人壱是皆」:「統治者から庶民に至るまで」というと『大学』を官僚養成学校の宣言と見る見解と異なるようにも見える。しかし、「皆に必要なのだから養成学校でも当然に必要なのだ」ということになる。

* 「統治者から庶民に至るまで」格物・致知から正心にいたる修身が必要だというのは、いささか過大な要求なようにもみえる。確かにそうあるべきなのだが・・実際には全員に期待するのは無理かも知れないが・・「べき」論としては、目標としては、まあ、そうあるべきだ。

* 格物・致知から正心にいたる修身というのは政治家だけに要求される事柄ではない。すべての国民においても判断力・認識力・知識が重要であることには変わりはない。いまは民主主義なのだから、国民自身が政治的な判断力を持たなければいけない。

* 現代の学校教育においてもそうあるべきか?。「格物・致知」の訓練というのは、近代の学校教育の中核にある「科学的知識による教育」そのものだ。問題は、それが「心を正す」「意を誠にする」に結びついていないことかな?。『大学』の著者は「物の本質にいたる知的訓練」をすれば「自分自身を率直に認識するようになり」そこから「自然な正しい判断力が生まれる」としている。実に僕もそう思う。

* しかし、学習の目標が問題だ。《受験のための学習》では判断力の育成に失敗する。《主権者としての国民としての適性を獲得するための学習》でなければならない。

* 学校で教えている「科学的知識」というのも問題かもしれない、「科学的知識」というのは「検証可能な命題」とされている。「検証可能性」にこだわると表面的な、形而下の知識だけに偏る、と言う可能性がある。《人は社会において如何に生きるべきか》に迫るような知識でなければならない。哲学や倫理学、論理学、弁証術、といった思索を助けるような学問も日本の学校教育では不十分だ。

* 道徳教育はどうだろう?。子供の道義性は親や教師の背中をまねして育つものだ。後段( 1003 )に「其所令反其所好、而民不従:為政者が彼自身の態度と異なる命令をしても民衆はそのような命令に従うものではない」(民衆は命令に従うのではなく、為政者の態度をまねするのである)というのが出てくる。道徳教育などといって、大人が子供に道義性を強要すれば、子供はその大人の態度を学ぶ。つまり《口先だけの道義性を唱え、他人に道義性を要求する》だけの子供になってしまうだろう。

* ふむ。聡明な教師の人格的な影響・感化力というものはある。教師の人格的な感化力を期待するのであれば、文部省に管理された管理職に管理されているような教師では駄目だ。・・というのが、たけ(tk)の現時点での考え。

* 『大学』の著者は「物にいたる知的訓練」をすれば「自分自身を率直に認識するようになり」そこから「自然な正しい判断力が生まれる」としている。実に僕もそう思う。しかし、知的訓練を積んだからといって、必ずしもそれが「正心」「誠意」になるわけではない。現代の、賢い大人たち、を見ているとむしろ「ずるがしこい」ようにみえる。自己の利益追求が肯定されているので、自己の利益のために自己の賢さを使う。つまり資本主義社会における賢さを持った人は「ずるがしこい」大人になってしまうのだ。

* たけ(tk)は、利益追求の社会を肯定している。経済的には正しいと思う。ただし、政治はちょっとだけ違う。民衆の利益追求のエネルギーは活かしつつ、不公正な利益追求は禁止し、利益追求の結果として生じる不公平を是正するのが政治の役目だと思っている。

* 『大学』の発想は「斉家」であり、身内の贔屓をしないことを要求している。しかし、自己の利益や身内の利益を無視せよ・捨てよと言っているわけではない。自己の利益を得たければ、自分の身を修めて家の長・一員として家全体の利益を得るのがよい。家の利益を得たければ国の一員として国の利益を得るのがよい。国の利益を得たければ天下・人類全体の利益を得るのがよい。と言い換えることもできるだろう。より大きな利益を得るためには、小さな部分で道義的である必要がある、と述べている。

* アメリカのプラグマティズムにも同じ理論がある。自己の短期的な利益だけを追求すれば紛争になり結果的に損失になる。相手の利益も考慮して公正に解決すれば、短期的な利益が得られなくても長期的には利益になる、という発想だ。これを道義的と呼ぶには多少抵抗があるが、長期的な結果重視の利益追求は、結果的に道義的な判断と同じになる、という意味で結果的道義性とでも言えようか。

* 『大学』が主張している道義性のメリットの説明は、実はこのプラグマティズムの結果的道義性と同じものだろう。多様な条件を冷静に判断して、短期的・長期的な結果を考慮して判断せよと言っている。要するに、結果的道義性を主張しているのだ。(此れに対する普通のいわゆる道義性は「動機的道義性」となるだろう)。

* じゃあ、「動機的道義性」のほうはどうなるんだろうか?。ここに、「親民:人民を理解する」や「誠意:心を自然にする」が出てくるのではないかと思う。「動機的道義性」というのは「行動様式」「思考様式」といったものだ。それは心理的に心地よいものであり、同一の共同体の中でのルーティンの生活においては大体においてはよい結果を生み、それに違反すれば大体において悪い結果をもたらし、制裁の対象になるような道義性だ。「民」は大体において、「動機的道義性」のパターンで行動し、判断する。「結果的道義性」の立場を取る者は社会の構成員の「動機的道義性」のパターンをよくよく考慮して行動すべきである。判断者のある判断が「人民の動機的道義性」からどのように評価されるか、「人民の動機的道義性」に基づく行動と相まってどのような結果をもたらすか、を考慮して判断しなければならない。これが、「民に親しむ」ことの意味だ。

0401

 4 所謂「誠」其意者、毋自欺也

* 「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」の3番目の「誠意」の説明。

所謂誠其意者、毋自欺也    意(こころ)を誠(まこと)にするというの
               は、自らを欺かないということである。

如悪悪臭、如好好色      悪臭を臭いと感じ、美しいものを美しいと感
               じるように素直な気持ちになることである。

此之謂自謙          これを自らを心地よくする(謙)という。
* 「誠」というと新撰組を思い出してしまう。「誠」であれば殺人も許される。大義のための殺人は犯罪ではなく、賞賛されるべき行為である、といった「誠」だ。

* 『大学』の「誠」は新撰組の「誠」とはだいぶ違う。『大学』の「誠」は、大義や正義感といった《思いこみ》を捨てて心を自由にするということだ。大義のためといった《思いこみ》とは正反対のものだ。

0501

 5 人之視己、如見其肺肝然

* 「明明徳」「親民」「止於至善」の「親民:人民を理解する」の視点から、「誠意:自らを欺かない」ことの重要性を説いている。人民の眼は鋭いから、自分を欺いて善人のような振りをしても無駄だ。つねに、自分を欺かない状態にして、身を修めなければならない、と説く。

故君子必慎其独也       それゆえに立派な人は必ず、一人でいるとき
               に自らの感性・認識・判断が自然なものであ
               るかどうかを吟味するものである。

小人闍処ラ不善        つまらない人間は人が見ていないと悪いこと
               を始める。

無所不至           どこまでやるかは限りがない。

見君子而后厭然?其不善    立派な人を見てはじめて自らの不善を隠そう
               と思い立ち、
著其善            とって付けたように善行を示そうとする。

人之視己、如見其肺肝然    しかしながら、人が自分の正体を見ぬく力と
               いうのは、肺や肝臓まで見通せるかの如く鋭
               いものであるから
則何益矣           そんな風に取り繕ってもなんの役にも立たない。

故君子必慎其独也       それゆえに立派な人は必ず、人が見ていよう
               が見ていまいが、自らの感性・認識・判断が
               自然なものであるかどうかを吟味するもので
               ある。

  * 閨ー間-日+月]
  * ?=「拾」に「算」の下の部分という字。覆うという意味
* 「慎独」:一人をつつしむ、と読むのだが・・、

* 前の段では「自らを欺かない」「自らを楽しむ」という内容であるのに対して、この段の君子の部分では「一人を慎む」、小人の部分では「人に見せるような善行は意味がない」となっている。それらを総合して考えると、「人に見せるための善行ではなく、内面の徳性が外面にわき上がってくるような善でなければならない。人が見ていない一人のときにこそ自らの徳性を磨くべきである。自らの徳性を磨くというのは、感性をウソごまかしのない状態(誠)にするということである」というようにつながっているのだろう。

* 「閨v:小人閑居為不善(ヒマにしていると不善をなす)かと思ったら、別の字だった。

* 後段は小人の「人に見せるための善行」を問題にしているが、君子の方には「善」という言葉がない。君子の善というのは、現実認識と広範な配慮に基づいたバランスの取れた判断力(至善)のことだ。外見から簡単に分かるようなものではないのであろう。

* おそらく、大学の著者は、ものすごい性善説なのだろう。たしかに、「格物・致知」に至り、ものごとをあるがままに見、ものごとの道理を見極めた人が善意の人であれば「誠」と「善」とは一致するのだろう。(p.108)。しかし…、どんなものかなぁ…。賢い悪人(陰謀家)と賢い善人(君子)の見分け方は難しい。善というのは立場によっても異なる気もするし…。

0502
曾子曰            曾子は次のように言っている
十目所視          「隠れてやったつもりでも、10個の目が視ている
十手所指           気づかれないつもりでも、10個の手が指差している。
其厳乎            これは厳然たる事実なのだ」と。

富潤屋            富があれば家屋が立派になるように
徳潤身            徳があれば身も潤う。
心広体胖           心を広くもてば態度もおおらかになる。
故君子必誠其意        それゆえ、君子はその心を自由でゆとりある
               状態にするのである。

詩云             詩経には次のような詩がある
瞻彼淇澳          「淇(き)の川の川岸には
緑竹猗猗           緑の竹があおあおと茂っている。
有斐君子           才能が輝いている君子は
如切如磋           切り出されて磨かれた象牙のごとく
如琢如磨           原石から取り出され磨かれた玉石のごとく
瑟兮[イ間]兮         優雅に
赫兮喧兮           光り輝いている。
有斐君子           才能が輝く君子のことは
終不可諠兮          忘れることができない」と。

如切如磋者         「切り出されて磨かれた象牙のごとく」というのは
道学也            道を学ぶということである。

如琢如磨者         「原石から取り出され磨かれた玉石のごとく」というのは
自修也            自らを修めるということである。

瑟兮[イ間]兮者       「優雅に」というのは
恂慄也            かしこまる気持ちを持っているということである。

赫兮喧兮者         「光り輝く」というのは
威儀也            自信を持っているということである。

有斐君子          「才能が輝く君子のことは
終不可諠兮          忘れることができない」というのは
道盛徳至善          徳があり善に至った人のことは
民之不能忘也         民衆は忘れることができないということである。

詩云             詩経では次のような表現をしている
於戯            「ああ
前王不忘          (徳のあった)前の王を忘れられない」

君子賢其賢而親其親      君子が賢人を賢人として扱い、
               親しむべきものに親しめば、
小人楽其楽而利其利      民衆は安心して楽しみ
               利益を得ることができるようになる。
此以没世不忘也        そうなれば、世の人々は彼を忘れることはない。

康誥曰            書経の康誥編には次の表現がある。
克明徳           「(文王は)よく徳を明らかにした」

大甲曰            書経の大甲編には次の表現がある
顧ィ天之明命        「(湯王は)天の明命を思い実行した」

帝典曰            書経の尭典編には次の表現がある。
克明峻徳          「(尭帝は)よく峻徳を明らかにした」

皆自明也           どれも同じ意味である。
* 内面の人徳は外面に現れ、外面の態度は人に影響を及ぼす。

0601

 6 作新民

* 「明明徳」「親民」「止於至善」の「親民」の視点から、人民が新鮮な毎日を送れるような社会を作るように勤めよ、と説く。

湯之盤銘曰          湯の盤の銘には次のように書かれている
苟日新           「まことに、一日は新鮮である
日日新            日々はそれぞれに新鮮である
又日新            またの日もまた新鮮である」と。

康誥曰            書経の康誥編には次のようにある
作新民           「民衆に新鮮な気持ちを思い起こさせよう」と

詩曰             詩経には次のような言葉がある
周雖旧邦          「周は古い邦だが
其命惟新           その命はいつまでたっても新鮮だ」と

是故君子           それゆえに、君子は
無所不用其極         その極みを用いないことはないのである
* 民衆が活気に溢れるようになるのは、とてもよいことなのだ。

* 「其極」:「その極み」と言われても、何のことか分からぬよ。直前の文章は(A)「民衆が新鮮な気持ちでいられる」でありその前は(B)「君子が徳を明らかにすれば民衆がたたえる」となっている。その前は(C)「君子は一人で居るときに徳を積む」で、その前は(D)「心を誠にするというのは、自らを欺かない」となっている。これらを総合して解釈するなら、「君が己の心をウソごまかしのない状態にすれば(D)、最終的には民衆が元気になる(A)」となる。「頑張って心を誠にし、それが民衆の喜びに結実するように、君もガンバレ」というのが「その極み」ということになる。

0701

 7 於止知其所止、可以人而不如鳥乎

* 以下は「止(とど)まる」がテーマのようである。「止まる」は「維持すべき」ものと読み替えませう。

* 「明明徳」「親民」「止於至善」の「止於至善:適切な判断が可能な状態を維持する」の「止」についての説明。

* 「知止→定→静→安→慮→得」にも「知止:ものごとを有りのままに知る状態を維持する」の「止」が出てくる。しかし、ここではそれよりもうすこし大きいことを言っている。「止於至善」の「止」の方の説明だろう。

詩云             詩経に次のような言葉がある
邦畿千里          「国の領土は
惟民所止           人民が止まるところ」

詩云             詩経に次のような言葉がある
緡蛮黄鳥          「美しい黄鳥が
止于丘隅           丘の隅に止まっている」

子曰             孔子は次のように言った
於止知其所止        「(鳥ですら)止まることをを知っている
可以人而不如鳥乎       人間も止まるべき所には止まらなければなら
               ない」と

詩云             詩経に次のような言葉がある
穆穆文王          「慎み深い文王は
於緝熙敬止          止まるべきところを尊重した」

為人君止於仁         君主である場合には広い思いやり(仁)に止まり
為人臣止於敬         家臣である場合には敬う気持ちに止まり
為人子止於孝         子である場合には親に尽くすこと(孝)に止まり
為人父止於慈         父である場合には慈しみの気持ちに止まり
与国人交止於信        人と交わる場合には約束を守ること(信)に
               止まらなければならない

  * 緡=[糸+民+日]
* 良いものは良い。人が何といおうと、人々がどう動こうと、良いものには止まらなければならない。

0702

* 次の文がここに置かれている趣旨はわかりにくいが、孔子は適切な判断をし続けることによって民衆を感化した、と言いたいのだろう。

子曰             孔子は次のように言った
聴訟吾猶人也        「紛争が起きてしまってから仲裁を行う能力は、
               わたしの能力は普通の人と変わらない。
必也使無訟乎         紛争が起きないようにする能力が重要なのだ」と。

無情者不得尽其辞       不誠実な偽りの申立を見抜いて、それを取り
               上げないようにしなければならない。

大畏民志           民衆が為政者を見抜く力は畏(おそ)るべき
               ものである

此謂知本           これが本を知るということである。
* 「大畏民志」:岩波文庫版では「偽りの申し立を…むだだと悟らせて…(訴えを起こさないように)畏れさせる」と読んでいる。「使民畏其志」とは書いてないはずなのだが…。

* 「民志」:前のほう( 0501 )にある「人之視己、如見其肺肝然:人が自分の正体を見ぬく力というのは、肺や肝臓を見るごとく鋭いものである」と同じ意味と解釈した。民衆が為政者の公正を望む心、か?

* 「民志」:後段( 1003 )には「其所令反其所好而民不従:為政者が彼自身の態度と異なる命令をしても民衆はそのような命令に従うものではない。(民衆は命令に従うのではなく、為政者の態度をまねするのである)」とある。民衆は、為政者の態度を見抜いたことを民衆の態度によって示すものだ。民衆は為政者の公正さを自覚的に評価する、ということのほかに、為政者が公正さを欠けば民衆もそれに連ねて乱れていく、という意味で、恐い存在なのだ。

* 為政者や裁判官が偽りの事実主張を見抜くことができずに、誤った判断をすれば、民衆に大きな悪影響を及ぼす。為政者には公正な判断力が求められているのである。そのために為政者には修身が、格物にいたる知恵が、要求される。

0801

 8 修身在正心

* 「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」の「正心→修身」との関係の説明。

所謂修身在正其心者      身を修めることは心を正す(バランスを保つ)
               ことにあるというのは以下のような事情を差
               している。

身有所忿*、則不得其正    身に怒りがあるときには正しい判断ができな
               くなる。

有所恐懼、則不得其正     身に恐れがあるときにも正しい判断ができな
               くなる。

有所好楽、則不得其正     好ききらいがあるときにも正しい判断ができ
               なくなる。

有所憂患、則不得其正     心配事があるときにも正しい判断ができなく
               なる。

心不在焉           心ここにあらざれば
視而不見           眼に写っても見ることができない
聴而不聞           耳に聞こえても聞くことができない
食而不知其味         食べても味を感じることができなくなる。

此所謂修身在正其心      したがって、身を修めるというのは、自分の
               心をバランスを保った状態(正)にしておか
               なければならないということなのである。
* そのとおり。

* 「心を正す」の意味が、「適切な判断が出来るような心のバランス」であることが説明されている。

* 「正心」は「適切な判断力を保つ」か?「心のバランス」か? 「心のバランス」では感情的な偏りを持たないことのように読めてしまう。まあ、ここで言っているのは「感情的な偏りを持たない」ことが「適切な判断力を保つ」ために必要だ、と言っているので、同じといえば同じか。

0901

 9 「斉家在修身」−「斉」

* 「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」の「修身→斉家」の関係。

所謂斉其家在修其身者    「自らの家に関して公正に判断する(斉)ため
               には自らの身を修める必要がある」というの
               は次のような事情を言う。

人之其所親愛而譬焉      人は親しみ愛するものがあると判断に偏りが
               生じてしまう

之其所賤悪而譬焉       憎むものがあると偏りを生じてしまう

之其所畏敬而譬焉       恐れたり敬ったりするものがあると偏りが生
               じてしまう

之其所哀矜而譬焉       哀れむものがあると偏りが生じてしまう

之其所敖惰而譬焉       見下すものがあると偏りが生じてしまう

故好而知其悪         それゆえに、好きなものに欠点を認めたり
悪而好知其美者        嫌いなものに長所を認めることができる人は
天下鮮矣           この世の中には少ないのである。

故諺有之、曰         ゆえに、諺でも次のように言っている。
人莫知其子之悪       「親が子供の欠点を知ることは少ない
莫知其苗之碩         自分の田の苗が他より大きいことには気づか
               ない」

之謂身不修不可以斉其家    したがって、自らを修めないと、自らの家を斉
              (ひと)しく判断することができない、と言う
               のである。
* ここでは、公正に判断することがいかに難しいかを述べている。これは「斉家」の内容が「公正に判断する」という意味であることを前提としている。

* 岩波文庫では「斉」を「ととのえる」と読んでいる。また「家を和合させる」という意味で理解しているようである。しかし、この段の内容は「愛憎や畏敬・傲慢によって自他の判断の偏りがあってはならない」ということである。したがって「ひとしくす」と読み、「自他の家に関して公正に判断する」という意味と理解すべきである。

* ここでの説明だと、「修身」は感情的な偏りを持たないことで、「斉家」は「公正な判断」というような図式になっている。この図式だと前の「8 修身在正心:「正心:」と「修身:」との関係の説明」との違いが分からない。前の段の感情は即自的な感情で、この段の感情は対人的な感情だという違いしかない。

1001

 10 「治国必先斉家」

* 「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」の「斉家→治国」との関係の説明。家(小さな単位での共同体)で手本を示せという趣旨になっている。

所謂治国必先斉其家者    「国を治めたいとするならまず自分の家を公
               平に扱え」というのは以下の事情を言う。

其家不可教而能教人者無之   自分の家の者に教えることができないものが
               他人に教えることもできない。

故君子不出家而成教於国    ゆえに君子は家を出ないで(自家で手本を示
               すことによって)国中に教えをなすことがで
               きる。
* 政治を行いたい(治国)なら、「自分の身内を贔屓する」というという心得は捨てなければならない(斉家)、「自分の身内を贔屓しない」ためには、自分自身がちゃんとしていなければならない(修身)、という至極まっとうな主張をしているわけである。

* この段では「斉家」は「自分の家で徳を実践し、実現せよ」という意味で使っている。自分の家を贔屓せずに公正に扱いながら、家の者に不平も生じさせずに、自分の家で徳性を実現しているということが、理想なわけだ。

* そうか、儒教では「家の徳」がそのまま「国の徳」になることを主張しているのか。近代国家の「徳」は「家の徳」とは全く異なるものとして扱われるべきとされている。つまり、「近代国家の徳」とは「結果重視の徳」である。「家の徳」は「動機重視の徳」である。

* もっとも、「今の家庭の徳」は「高低差別の徳」ではなく「人間公平の徳」であるとするなら「家の徳」と「国の徳」とは近くなる。

* しかしなあ、うちのおばあちゃんは「人の悪口をいうのは悪い」という。「野党は人の悪口ばかりいっている」と批判していた。「縁起の悪いことは言うべきではない」という言霊的な道徳観もあるだろう。このような「家の道徳」を「国の道徳」に敷衍したら、うまくいかないだろう。

* たけ(tk)の親戚に中小企業の社長さんがいて、息子に事業を継がせた。至極もっともな親の情というべきだろう。しかし、大企業の場合なら企業の私物化として批判されるだろう。国政を息子に継がせる、となれば王政になってしまう。そこら辺が「大学」の限界ということか。しかしまあ、息子に事業を継がせる、というのは「身内びいき」なわけだから、斉家に反する、といえばそうも言えるか・・。

1002
孝者所以上事君也      (孝が君主に仕える所以?)
弟者所以事長也       (悌?弟?は年長者に仕える所以?)
慈者所以使衆也       (慈しみは民衆を使うコツ?)

康誥曰            書経の康誥編には次のようにある
如保赤子          「赤子を安んずる如し」と。

心誠求之          (心が誠にこれを求めれば??)
雖不中不遠矣         当たらずといえども遠からず。

未有学養子而后嫁者也     子を養うことを学んでから結婚する女性はい
               ない。
* この段は後代の挿入とみて無視する。理由は次のとおり。

* 「孝者所以上事君也」:「君」に対して「孝」を使っているのがおかしい。「君」に対する場合には「忠」とかになるのが普通。

* 「孝」というのは普通は親に対する意味で使う。前段( 0701 )にある「為人子止於孝:子である場合には親に尽くすこと(孝)に止まり」は普通の使い方。「君」に対して「孝」を使うのはおかしい。

* なんで「君」に対して「孝」なのだろうか? 岩波の解説によると「忠孝一致の思想の強調(p.58)」らしい。なんとなく不自然。このあたりは後代の挿入じゃないのかな? 忠孝一致の思想は宋代だと思う。『孝経』の成立時期は宋代より前かもしれないが、『孝経』が重視されるようになったのは宋代。

* 実は「忠」という言葉は、論語の孔子の発言の用語法を調べると、家臣の君主に対する忠義という意味では使われていない。「君主が民衆や家臣の信頼を裏切らないこと」という意味で使っている。後段( 1401 )の「忠信以得之:民衆や家臣の信頼を裏切らず(忠)、約束を必ず守れば(信)成功する(得)」は孔子の用語法に一致する。

* 前段( 0701 )の「為人臣止於敬:家臣である場合には敬う気持ちに止まり」では「忠」でも「孝」でもなく「敬」を使っている。「忠」という言葉は「君主が民衆や家臣の信頼を裏切らない」という意味なので、家臣が君主に対してとるべき態度は「忠」ではなく「敬」なのだ。

* 論語での「忠」の使われ方や宋代に儒教が変質したことについては ../gaia/jingi.html 『自律者の徳目(仁義礼智信)と従属者の徳目(忠孝悌)』参照してください。

* 「慈者所以使衆也」:「慈」の使い方もおかしい。「為人父止於慈:父である場合には慈しみの気持ちに止まり」( 0701 )がなぜ「慈者所以使衆也:君主が人民を使うコツ」に化けてしまうのじゃ?

* 「如保赤子」:この部分以外の趣旨は「手本を示せ」ということ。相手が赤子では手本を示しても意味がないだろう。民衆を判断力のない赤子扱いするのは、「人之視己、如見其肺肝然:人が自分の正体を見ぬく力というのは、肺や肝臓を見るごとく鋭いものである」…「故君子必慎其独也:だから独りを慎め( 0501 )」という民衆観とは正反対の思想。

* 「心誠求之」:ここでの「誠」は「誠に」という副詞的に使われているようだ。しかも、今までのような「心を自由に」ではなく「熱心に」という逆の意味で使っている。おかしい。

* 「心誠求之:心が誠にこれを求めれば」の「之:これ」って何? 忠孝一致の思想を一心不乱に念じて「為人臣止於敬、為人子止於孝」あたりを無理やり読み替えれば、「雖不中不遠矣:当たらずといえども遠からず」ということかいな?

* 「雖不中不遠矣」:当たらずといえども遠からず、と読む。こんな曖昧で自信のない言い方をするのも不自然。

* 「未有学養子而后嫁者也」:案ずるより生むが安し、という意味。これも、ここに置くのは違和感がある。当って砕けろ、って何のこっちゃ?

* 以上のしだいで、この段落は後代の挿入と判断いたします。よって、無視。

1003

* 以下はすべて手本を示せ、という趣旨。上の挿入部分を除去して「故君子不出家而成教於国:ゆえに君子は家を出ないで(自家で手本を示すことによって)国中に教えをなすことができる」から直接つなげて読むのが正しい。それなら繋がるし…。

一家仁、一国興仁       指導者の家で思いやりが行き届いていれば、
               国民全体が思いやりのある国になる。

一家譲、一国興譲       一家に譲り合いの風習があれば、国全体に譲
               り合いの風習が興(おこ)る。

一人貪戻、一国作乱      指導者が貪欲になれば、国全体が乱れる。

其機如此           為政者の行動と国民の態度との関係はこのよ
               うなものである。

此謂             これは次のようにも言われている。
一言[イ賁]事        「心ない一言は紛争を巻き起こし
一人定国           心ある一人は国を安定させる」と。

尭舜率天下以仁        尭や舜は天下に広い思いやりを示したので
而民従之           民衆もそれに見習って思いやりのある社会を
               作った。

桀紂率天下以暴        桀や紂は天下に横暴を尽くしたので
而民従之           民衆もそれに見習って横暴になった。

其所令反其所好        為政者が彼自身の態度と異なる命令をしても
而民不従           民衆はそのような命令に従うものではない。
              (民衆は命令に従うのではなく、
               為政者の態度をまねするのである)

是故君子           それゆえに、君子は
有諸己而后求諸人       まず自分をあたらめてから人にそれを求める。
無諸己而后非諸人       自分に非がないようにしてから人を批判する。

所藏乎身不恕         自分自身を大切にしないで
而能喩諸人者         他人を諭すことが出来るような人は
未之有也           ありえない。

故治国在斉其家        それゆえに、「国を治めたいならまず自分の
               家を公正に扱え」という。
* 「無諸己而后非諸人:自分に非がないようにしてから人を批判する」:後段( 1401 )に「唯仁人、放流之迸諸四夷、不与同中国:広い思いやりがある人でなければこのような逆臣を辺境の地に追放し、国内に居させないようにすることができない」とある。

1004
詩云             詩経には次のような詩がある
桃之夭夭          「桃の木が若々しい。
其葉蓁蓁           その葉は青々と茂っている。
之子于帰           この家の娘が結婚する。
宜其家人           おめでとう、この家の人々」

宜其家人           家の人々が祝福される状態になって
而后可以教国人        その後に、国の人々を教えることができる。

詩云             詩経には次のような言葉がある
宜兄宜弟          「兄たちと仲良く、弟たちと仲良く」

宜兄宜弟           兄たちと仲良く、弟たちと仲良くして、
而后可以教国人        その後に、国の人々を教えることができる。

詩云             詩経には次のような言葉がある
其儀不?          「その模範にはくるいがない。
正是四国           それによって、四方の国々を正している」

其為父子兄弟足法       為政者の親子関係、兄弟関係が模範的であり、
而后民法之也         その後に、民衆も模範的になる。

此謂治国在斉其家       これが「国を治めたいならまず自分の家を公
               正に扱え」という意味である。

    (?は戈−ノ/心:違うという意味らしい)
* いくらなんでも、これらの詩からここまで読むのは、やりすぎじゃないかなあ?

1101

 11 「平天下在治国」:給髞V道

* 「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」の「治国→平天下」との関係の説明。ここでも「10 治国必先斉家」と同様に自分自身(小さな単位)で手本を示せという趣旨になっている。

所謂平天下在治其国者    「天下を平らにするためにはその国を治めなけ
               ればならない」というのは次のことを言う。

上老老            為政者が老人を老人として丁重に扱えば、
而民興孝           国民の間には孝行の風習が興る。

上長長            為政者が年長者を年長者として尊べは、
而民興弟           国民の間に年長者を尊ぶ風習(悌)が興る。

上恤孤            為政者が孤児をあわれみ助ければ、
而民不倍           国民が為政者に叛くことはない。

是以君子有給髞V道也     これを「君子は給驕iけっく)の道を行く」
               という。

  * 求′堰|シ
1102
所悪於上毋以使下       上に立つものは自分が下だったら嫌だと思う
               ようなやり方で下の者を使ってはならない。

所悪於下毋以事上       下に立つものは自分が上だったら嫌だと思う
               ようなやり方で上に仕えてはならない。

所悪於前毋以先後       前を行くものは自分が後ろだったら嫌だと思
               うようなやり方で後ろを先導してはならない。

所悪於後毋以従前       後ろを行くものは自分が前だったら嫌だと思
               うようなやり方で前について行ってはならない。

所悪於右毋以交於左      右に居るものは自分が左だったら嫌だと思う
               ようなやり方で左と交わってはならない。

所悪於左毋以交於右      左に居るものは自分が右だったら嫌だと思う
               ようなやり方で右と交わってはならない。

此之謂給髞V道        これを給驕iけっく)の道という。

  * 求′堰|シ
* 前段の給髞V道は「見本を示せ」で、後段の給髞V道は「公正に行動せよ」だ。合わせると「公正に行動する見本を示せ」になる。

* ここら辺から違和感が出てくる。現代の政治・経済構造を前提に考えると、なんとくなく奇妙な・非現実的な主張になってくる。

* まあ、為政者が国民に見本を示してもらうのは良いのだが…。そういえば、テンノーヘーカは選挙に行かないね。だから、日本の国民も政治むきの話を忌避するようになるのか?

1201

 12 「得衆則得国、失衆則失国」

* 次は、民衆の支持が重要だといっている。

詩云             詩経には次のような言葉がある
楽只君子          「楽しきかな君子
民之父母           民衆の父母」

民之所好好之         民衆が好むものを好み
民之所悪悪之         民衆が憎むものを憎む
此之謂民之父母        これを「民衆の父母」という。

詩云             詩経には次のような詩がある
節彼南山          「切り立った南山は
維石岩岩           岩がごつごつしている。
赫赫師尹           輝く大師の尹氏を
民具爾瞻           民衆が仰ぎ見ている」

有国者不可以不慎       国を持つ者は慎重でなければならない。
辟則             模範的でない偏った行動を示せば、
為天下[謬−言+イ]矣     天下の恥辱を受けることになる。

詩云             詩経には次のような詩がある
殷之未喪師         「殷が支配権を有していた時代には
克配上帝           天の上帝の心にかなった政治を行っていた。
儀監于殷           殷が滅びた事情を顧みて戒めにせよ。
峻命不易           天の支持を維持するのは容易ではない。」

道得衆則得国         民衆の支持を得れば国を得ることができる
失衆則失国          民衆の支持を失えば国も失うのだ。
* 民主主義という政治形態でないにもかからわず、民衆の支持が重要だといっている。

* しかし「民之所好好之」といった単純な道徳観で、為政者が行動してもらっては困る。現代の資本主義社会においては、民衆に求められる道義性(商道徳、金儲け、家庭内の道義性)と為政者に求められる道義性とは異なる。難しいところだな。為政者は模範を示してはいけない、となるか? まあ、金儲けに走ってはいけない、という模範を示すべきなのか? アメリカの功利主義は、為政者も利益追求をせよ、と言うことなので、為政者が金儲けの模範を示すことになる。そこに、規範の矛盾はなくなる。しかしなあ…。

1301

13「徳者本也、財者末也」

* 以下は、国家財政または国民の経済状態をよくするための方策について述べているようだが……。

是故君子先慎乎徳       これゆえに君子はまず自分の徳を慎む
有徳此有人          徳があれば国民が帰服する
有人此有土          国民が帰服すれば国土が安定する
有土此有財          国土が安定すれば税金も徴収できる
有財此有用          税金を徴収できれば為政者がそれを用いるこ
               とが出来るようになる。

徳者本也           徳が先にあり
財者末也           財はその結果として生まれるものである。

外本内末           これを逆にすると
争民施奪           国民を争わせ、奪い合いを教えることになる。

是故             それゆえに、
財聚則民散          政府が徴税強化に走れば民衆は離散し
財散則民聚          政府が福祉政策を行えば民衆が集まってくる。

是故             それゆえに、
言悖而出者          道にはずれた言動を行えば、
亦悖而入           道にはずれた言動が返ってくるのと同様に、
貨悖而入者          道にはずれた財貨を得ようとすると、
亦悖而出           道にはずれて出ていってしまうのである。
* 国家財政または国民の経済状態をよくするための方策について述べているようだが、『大学』の時代と、現在とでは経済基盤が異なる。

* 『大学』の時代の経済基盤は、農民の自立的な農業生産があり、為政者はその一部を用心棒代として徴収するという構造になっていた。経済の基礎となる生産力は固定的なので、財政支出が経済活動を活発化させるというような仕組みにはなっていない。国家財政は権力者が消費するためのストックの意味しかない。

* それに対して、現代の資本主義経済では、ストックよりもフローのほうが重要になっている。経済循環が活発であることが好景気であり、循環がとどまれは不景気になる。国家財政も、その経済循環を助け、調整するという意味合いが強い。

* 『大学』の時代の政治は小さな経済単位も大きな経済単位も同じような構造=固定的生産力と用心棒代=で成り立っていたので、小さな経済単位での徳がそのまま大きな経済単位での徳として通用したのだろう。

* しかし、現代では小さな経済単位の「家」と中くらいの経済単位の「企業」とでは徳のあり方が全く異なる。また、大きな経済単位の「国家」は「企業」とは別の徳が求められている。「企業」は市場原理の中で私的利益を追求して行くことが求められているのに対し、「国家」は「企業」の活動がもたらす不公平を是正・解消するという、正反対の方向性の徳が求められているのだ。

* 『大学』の時代でも現代でも、「格物・致知から正心にいたる修身」と「斉家」に見られる公正な判断が必要なことには変わりがない。しかし、経済構造が異なる場合には、「格物・致知から正心にいたる修身」によって得られる「斉」しい判断の内容は変ってこざるを得ないであろう。

* この文章は「農民の自立的な農業生産があり、為政者は(自立的な農民を暴力で支配し)農民が自立的活動で得た収益の一部を用心棒代として徴収するという構造の社会」を頭においておかないと、理解できない。

* まるで企業経営のコツみたいな話になっている。社員の給料を下げると、有能な社員は出て言ってしまう。という話なら分かる。

* 財散則民聚:「国」といっても、国が乱立している状態で、苛政を行えば農民はすぐに隣の国に行ってしまう、というような現代社会における企業と似たような状況でもあるのだろう。

1401

14「忠信以得之、驕泰以失之」

* 次は人事問題なので、現代にも通用する。善人に、いかに活躍の場を提供するかが問題だといっている。

康誥曰            書経の康誥編には次のような言葉がある。
惟命不于常         「天命というものはいつまでも同じではない」。

道善則得之          為政者が善を行えば天命を得ることができ、
不善則失之矣         為政者が不善を行えば天命を失うのである。

楚書曰            楚書に次のような言葉がある。
楚国無以為宝        「楚の国にはこれといった宝はない
惟善以為宝          ただ善人が多いこともって宝とするのである」。

舅犯曰            舅犯は次のように言った。
亡人無以為宝        「亡命中のわたしには宝というものはない
仁親以為宝          ただ広い思いやりを持った親族が居ることだ
               けが宝なのだ」と

秦誓曰            書経の秦誓編には次のような記事がある。
若有一个臣         「ここに一人の家臣がいて
断断兮無他技         誠実な他にはこれといった技術もない。
其心休休焉          その心はゆったりとしていて
其如有容焉          人をよく受け容れる。
人之有技           人に技ありとみれば
若己有之           己の技のごとく彼を推薦し、
人之彦聖           人が聡明であるとみれば
其心好之           それを喜んで愛好する。
不啻若自其出口        口先だけでなく、
寔能容之           実際にも受け容れるなら、
以能保我子孫         彼の子孫は安心であり、
黎民尚亦有利哉        国民もまた大きな利益を得ることができる。

人之有技           逆に、その家臣が、人に技ありをみれば
[女冒]嫉以悪之        嫉妬して彼を憎み、
人之彦聖           人が聡明なのを見ると
而違之俾不通         彼を陥れ採用されないようにし、
寔不能容           他人を受け容れることができないなら、
以不能保我子孫        彼は子孫に地位を継がせることができないし、
黎民亦曰殆哉         国民もまた危険な目に会うだろう」。

唯仁人            広い思いやりがある人でなければ
放流之迸諸四夷        このような逆臣を辺境の地に追放し、
不与同中国          国内に居させないようにすることができない。

此謂唯仁人          これを「広い思いやりがある人だけが、
為能愛人           よく人を愛し、
能悪人            よく人を憎むことができる」という。

見賢而不能挙         賢いことを認めながら推挙せず
挙而不能先          推挙しても仕事をさせないなら
命也             怠慢である。

見不善而不能退        不善であるこをと見ながら退けず、
退而不能遠          退けても遠ざけないなら
過也             過失である。

好人之所悪          人が悪いと思うことを好み
悪人之所好          人が好ましいと思うことを憎むなら
是謂拂人之性         その人間は人間性に欠けるという。
?必逮夫身          災いがその人を滅ぼすだろう。

是故君子有大道        それゆえに、君子には大道がある
必忠信以得之         民衆や家臣の信頼を裏切らず(忠)、
               約束を必ず守れば(信)成功し、
驕泰以失之          驕ったり気を抜けば失敗する。

    (?は「蕾」「蓄」に似た字。サイと読む、災害と同じ意味)
* 必忠信以得之:これは家臣の「忠」ではなく、君主自身に「忠」「信」が必要ということ。「忠:為政者が民衆や家臣の信頼を裏切らない」「信:為政者が約束したことは守る」。

* 必忠信以得之:論語の次の部分の「忠信」と同じ意味。「8 子曰、君子不重則不威。学則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。君子は重心が低くなければ、威厳がない。学ぶならば固執しない。忠信を主として、自分以下の友がいない。失敗しても、改めることを躊躇しない」( http://kaheki.hp.infoseek.co.jp/china/ronkai1.html )。

* 日本語の「忠」は、家臣から主君に對する忠義の意であるが、中国の「忠」は、「他人 に対して真心を以って奉仕する」という意味である( http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/rongo.htm )。

* 論語における「忠」の使われ方については 自律者の徳目(仁義礼智信)と従属者の徳目(忠孝悌) 参照。

1501

15「生財有大道」

* 次は財政問題に戻っているので、現代にはあわない。

* もっとも、地球レベルの資源の有限性を考慮するなら、こうあるべきかもしれない。為之者疾ではだめか。

生財有大道          経済的に繁栄するようにするには大道がある。

生之者衆           生産が多く
食之者寡           浪費が少なく
為之者疾           作るのが速く
用之者舒           使うのが遅ければ
則財恒足矣          常に満ち足りた状態になる。

仁者以財発身         仁のある人は財力を手段として能力を発揮する。
不仁者以身発財        仁のない人は能力を手段として財力を得る。

未有上好仁而         為政者が仁の政治を行って、
下不好義者也         民衆が正しいことを好まなくなるということ
               はあり得ない。

未有好義           正しいことを好んで行うときに、
其事不終者也        「その事」がなしとげられないこともあり得ない。

未有府庫財非其財者也     財産というのは(使いもしないのに)いつの
               間にか消えてしまうというものではない。
* 家計レベルの話としては、もっともである。

* しかし、企業レベルでは違うし、国家レベルでもこういうわけにはならない。

1601

16「国 不以利為利、以義為利」

孟献子曰           孟献子は次のように言った。
畜馬乘不察於鶏豚      「馬車に乗るような身分になれば、鶏や豚のこ
               とは気にしなくなる。
伐冰之家不畜牛羊       氷室に氷を貯える家に住むような身分になれ
               ば、牛や羊にも気にしなくなる。
百乘之家           大きな領土を持つ領主になれば、
不畜聚斂之臣         厳しい徴税官を雇う必要もなくなる」と。

与其有聚斂之臣        厳しい徴税官を雇うくらいなら
寧有盗臣           横領をする役人の方がましだ。

此謂国不以利為利       これを「国家にとっては、利は利ではなく
以義為利也          義こそ利である」という。
* 現代の経済理論とは違うなぁ…。

* 財政の恣意的運用が難しい仕組みになっている。不公平な税制が問題なのであって、公平な税制の下で厳しい徴税官がいるのがもっとも望ましいのではないか? 累進型の総合所得税で公平な税制なら、良いのだが…。

* こういうことか?:( http://www.nnn.co.jp/essay/tisin/tisin0402.html#05 )アメリカは一九七三年から二〇〇〇年で米納税者の下から90%の実質所得の平均は7%減少したが、上位1%は148%、最上位0・01%については599%も実質所得が増加した。これらはすべて、所得税、相続税や贈与税などの減税という、富裕者層を優遇する政府のさまざまな施策強化がもたらしたものである。日本もまさに同じ道をたどっている。

* 財政だけを考えるなら、非兌換の通貨発行権がある国家には税金も必要はない。税金がなくても財政出動は可能。しかし、インフレの弊害や、所得格差の放置の弊害等があるので、税金を徴収するのが、民衆にとっても望ましいのだ。

* 『大学』の視点はストック。これに対して、資本主義的な繁栄のためには、消費こそ鍵になる。資本主義的経済では、循環スピードが景気の指標になる。フローが重要。
* 国家財政もフローなんだよね。使うために徴税する。予算は消化しなければならない。

* 国政の話と、個人的な話とが入り混じっている。
* まあ、修身→平天下を直結させるなら、そうならざるをえない。
* しかし、無茶な話だ。

* 基本的には、各領主が領民から徴税することが前提になっている。
* 財政運営の基本構造が異なるので参考にならない。
* マルクス的に言えば下位構造が異なるので上位構造も異なる。

1602

* 資本制国家体制において、仁政とはなにか?
* 資本制国家体制において、仁政は必要か?
* 民主政は仁政か?
* 単純に、利権政治は駄目よ、とか、独裁は駄目よ、という程度の仁政か?
* その答えは最初に書いてある。
* 為政者よ、物を知れ(格物)、原因と結果の法則を知れ(致知)、民衆の利益を知れ(在親民)、定見をもって広く配慮せよ(安而后能慮)、冷静公正な判断力を維持せよ(止於至善)、そして自身の明徳を明らかにするような政治的判断を行え(明明徳)。それがあるべき政治判断(仁政)の姿だ。

* では、どうやって、そのような人材が活躍できるようなシステムを作るにはどうすればよいのか?

長国家而務財用者       国家の長であって徴税を重視するものは
必自小人矣          つまらない人物を採用してしまう。

彼為善之           上司から見て良いと思っても
小人之使為国家        つまらない人物が国政を担当すると
?害并至           災いが頻発するようになる。

雖有善者           こうなってしまっては、善ある者と言えども
亦无如之何矣         いかんともしがたい。

此謂国不以利為利       これを「国家にとっては、利は利ではなく
以義為利也          義こそ利である」という。

    (?は「蕾」「蓄」に似た字。サイと読む、災害と同じ意味)
* この部分は興味深い。為政者がどういう心構えだと、どういう公務員が生まれるのか、という関係は研究に値する。どういう人間が為政者になると、役人が小人ばかりになるか?

* 長国家而務財用者:というのは、今でも通用するように言い換えるなら、短期的な利益にしか目が行かない為政者、という意味だろう。

* 国家百年の計を重んじる政治家が実権を握れば、役人も百年の計で国家を運営するようになるだろう。では、国家百年の計を重んじる政治家が実権を握るような人事制度(選挙制度)はどうあればよいのか?

* 「利権政治家が選挙で当選するような選挙制度」では不可。利権政治家が実権を握れば、利権役人ばかりになってしまうだろう。利権政治家というのは短期的な国家利益・国民利益でもなく、私益を重視する政治家ということだから、長国家而務財用者よりももっとたちが悪い。

* 僕は、衆議院と参議院のアクセル・ブレーキ論というのが良いと思っている。衆議院は短期的な判断を行うアクセル役、参議院は長期的な判断を行うブレーキ役。なので、衆議院は小選挙区制。参議院は大選挙区制。全国民に対して政策を訴えて議論できるような選挙制度が必要だと思っている。
* 民主政においては選挙が人事だ。選挙において、国民が適切な候補者を選択できる仕組み、情報、判断力が重要になる。

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